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ヘルプが出せないネギと、ヘルプを出さない人間 byはましゃか

育てていたネギの元気がなくなってしまった。

どこかで見た、「ネギは育つから買う必要ない」という情報を真に受けて、
買ってきた万能ネギの根っこを水につけてみたら、予想の5倍の速さで育った。

3日経ち、ふと見るとギョッとするほど伸びている。1週間経つと、もう元の長さに戻っているのではないかと思うほどに大きくなっている。

私はひとり暮らしで、ペットもいない。去年、鉢植えの花を枯らしてしまった経験があり、生き物と住むのは向かないと思っていた。でも、今の状況で家をどうにか楽しい場所にできないかと友人に相談したところ、やはり植物ではないかという結論に達した。

水を入れたコップを用意し、多肉植物と一緒にネギの根っこをつけておいた。ネギの成長が一番早い。他の植物は「何にも変わっていませんよ」という顔をしているのに、ネギの生命力たるや恐ろしい。「生きたい、まだ伸びたい」そんな気概をひしひしと感じる。

少し不安になりながら、ネギを料理に入れるため、ハサミでちょきちょきと切る。
断面から、ジューシーと表現すべきだろうか、はち切れそうな水分がにじみ出ている。なんとなく悪い気がするが、食べさせていただくしかあるまい。もう一度、切った根っこを水につけると、また3日もしないうちに新しい芽が出てくる。

そうこうするうち天気が陽気になってきたので、この日光をネギにもと外に出した。
2日後、家の中に……とベランダのドアを開けると、明らかに元気のないネギがそこにいた。

「ど〜したのど〜したのど〜したの〜!!!」と独り言も早口になる。
一生懸命に光の方を向いて反らせていた体(体と言っていいものか)が、下を向き、床についている。細い体を水分でパンパンに膨らませ、断面も綺麗な円だったあのころの見る影もない。グニャグニャになっている。

こんなにお天気が続いていたのに、一体何がだめだったのだ。ネギをじっと見つめていると、ふと気がついた。「あんた、もしかして、熱中症になったのか……?」と。

そうだ、いきなり屋内から温度変化の激しい屋外に連れていかれて、文字通り温室育ちのあんたはバテてしまったんだ、いやあ、申し訳ないことをした。


しおれたネギを撫でながら、人間もこんなふうにわかりやすく、見た目でヘルプを出せたらいいのにな、と思った。

もうだめです、もう限界です、みたいなとき、このネギみたいに手足がグニャグニャになって体がしぼんだら、これはさすがにあかんぞと、周りの人もわかると思うんだけど。本当に周りがわかるほど大変なことになるまでどうしようもできないのはちょっとなぁ。

「顔色悪いよ、大丈夫?」と言われて助かるときもあるが、私のような年中顔色が真っ青な人間にはあてにならない。心の調子はもっと見て取れないし、目に見えない困りごとだって沢山ある。



高校に上がったとき、担任の先生が「中学校までは“体調を崩したときは連絡したらゆっくり休んでくださいね〜”と甘やかされてきたかもしれませんが、今日からは違います、自己責任です、出席日数が足りないと卒業できないのでそこんとこよろしく」というようなことを言い放った。「体調管理は自己責任」。ずしっと来た。どうやら体調が悪くならないように気をつけるのが大人のつとめらしいぞ、と高校生の私は思った。

あの日から「体調が悪いです」がとても言いにくい。必ず「すみません」が枕詞になる。体調を崩してしまってすみません。私の体調管理がなっていなかったんです。もっと自己管理に責任を持ちます。社会に出てからは、体調を崩すと人に迷惑をかけることもある。人に迷惑をかけちゃいけない、迷惑をかけちゃいけない……さらに謝罪が重なる。

周りに迷惑をかけて謝るくらいならと、「大丈夫です!」と嘘をつくこともできるようになってしまった。反対に、ズル休みだってできるこの人間世界、ネギみたいにパッと見てわかればいいのに、と思ってしまう。


私のような自分のお世話もギリギリの人間に捕まったせいで、なぜか2度目の人生が始まったこのネギ。もっとちゃんと様子を見ていれば、もう少し早く様子がおかしいことに気づけていたかもしれない。そう、ネギはしおれても謝らなくていいけど、声を出して助けを求めることも、自分で水を替えることもできない。かわいそうに。

人間はぐにゃぐにゃにならない代わりに「ヘルプ」を出せる。生まれつき「泣く」という一番シンプルな「ヘルプ機能」が搭載されている。外から見てわからない痛み、具合の悪さ、気持ちの落ち込み、そういう心身の不調から、社会的な困りごとや経済的危機まで。「ヘルプ」を出すことだけは自分にしかできない。

赤ちゃんのときは大声で泣いていたのに、大人になるにつれ、泣くのを我慢し、周りに迷惑をかけないこと、波風立てないこと、相手を優先することなど、“社会に参加し続けるためのルールと言われてきた何か”を覚えるうちに、いつのまにか自分の中から聞こえる「ヘルプ」を無視することまで覚えてしまった。
自分の内側がぐにゃぐにゃになっていくのを無視し続けていては、誰も助けられない。自分に食事を食べさせることもできなくなってしまってからでは遅い。

私は自分のことを洗うのさえ面倒に思う人間だ。食器を洗うのも面倒だし、誰にも会わない日に身だしなみを整えることや、住まいをきれいにしておくこと、それを継続することも苦手だ。昼夜逆転しないように自己管理することも苦手だし、毎日食事を3回用意することも難しい。(そんな人がネギを育てようとしたんかという声が聞こえる)

そういうことを怠ったときに何が起こるかは知っている。いちど自律神経が狂って、食欲がなくなってしまうと、しばらくループから抜け出せない。社会生活が営めなくなり、その罪悪感から自分を罰する気持ちになり、自分のお世話をやめる「セルフネグレクト」状態になってしまうのだ。義務教育で「ひとり暮らしするときは絶対に自律神経を守りましょう、命にかかわるので」ってことだけは教えてほしい、ほんとに。

自分の中のヘルプを見ないふりしていては、大変なことになってしまう。周りに迷惑をかけないようにと、まだ大丈夫です、なんて嘘で許容量を超えたことをしていたら、パンクしたときにもっと周りに迷惑をかけてしまう。もっとも、その行動で「無理をすることがえらい、むしろ普通」と周りに伝えていることにもなって、結果、周りの人も同様に無理させてしまう。それを身をもって知ってから、こまめに周りにヘルプを出すようになった、ような気がする。まだまだ手探りだけど。

元気じゃないといけない、なんてことはない。体調を崩すのは自己責任、そんな言葉と出会うこともあるかもしれないが、変えられないハンディキャップを持っている人たちにまでそれを言えるだろうか。偏頭痛や低血圧、生理の痛みや、それにまつわる心身の体調不良まで自己責任にされてしまってはかなわない。精神的に体調を崩すのも、自己責任と言ってしまえる世の中なら私はいやだ。だから体調が悪いのを隠したり、見て見ぬふりするのもやめた。

自分の調子の変化を観察するようになった。パターンを把握して、体調が変わる時を予測するようになった。変えられないことを無理に悩まず、変えられることを探すようにした。

思い返すと、去年よりできることは増えたかもしれない。
ご飯を食べ忘れて電池切れになったときのために、チョコレートを常備しておくようになった。部屋が散らかったときは、友人に電話して見張ってもらいながら片付けるようになった。洗剤をお気に入りのものにして、洗濯を「いい匂いが嗅げるタイム」にした。キッチンの横に棚を自作して、狭いワンルームでも自炊を楽しめるようにした。お肉屋さんで肉をまとめて買って冷凍して、困ったときはお肉を焼くだけでご飯が食べられるようにした。そして、なるべく長持ちする食材を家に置いておくようにした。

そうだ、その流れでネギを育て始めたんじゃないか。育てることに集中してた……。

もしかしたら、小さなことに見えるこれらのライフハックたちが束になって、今後の私を支える軸になるのかもしれない。

結局しおれてしまって、いま切ったらもう生えてこないかもしれなくて、なんでネギのことを考えて涙ぐんでいるのかもわからないけど、とりあえず今日のご飯に使います。

ネギ、ありがとね。


Written by はましゃか
Edited by はつこ
illustrated by aka

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