永沢君とはだれか
ちびまる子ちゃんの全巻を繰り返し読んでいると、永沢君があまりに急にたくさん出まくるので驚く。この、玉ねぎ頭のひねくれた少年は、18巻中6巻に至るまで登場していない。
もともと私は9巻から出てきる、とメモしていたが、Wikipediaには6巻から出ていると書いてある。そして確かに出ていた。
親が授業参観にくる、という流れで、花輪君がボクのマミーは来れないがじいやがくる、まる子が「ああヒデじいね」と会話しているところに、「いいよなみんなはだれかがきてくれて」「オイラんちなんかだれもこないんだぞ さみしいよ」と切なそうな顔で訴えるのが初登場である。
そして「永沢クン 勉強ができないから親がこない方がラッキーなんじゃ…とはだれもいえなかった」という恒例の天の声のツッコミが入る。
この時点で、さくらももこがなぜこのキャラクターに名前を付けていたのかは謎である。なんせ6巻には、この2コマしか出番がない。顔の形もまだタマネギ感はそんなにない。しかし「暗いことを言って周りを引かせる」芸はすでに確立されている。
さらに7巻には出番がなく、8巻では、ただそこにいたという理由だけで、花輪君が護身術を披露する相手としてだけ登場する。モブ男子の典型である。パッとしない男子ならば一度は必ず経験する、目立つ男子がただ目立つためだけに犠牲になってしまうあの感じ。
しかし、そこからの永沢君の出世のスピードはすさまじい。10巻ではすでに特権的な立場で扉絵に登場し、冒頭の「主な登場人物」でも家族、たまちゃんに次いで、花輪君、丸尾君と同じ大きさになっている。さらに相棒である藤木とともに、11巻くらいからは、まる子よりもメインに近い扱いもされる話もある。
要するにさくらももこは、描いている途中で永沢君を「見つけた」のだ。なんとなく描いた気弱なモブキャラが、陰険で、愛嬌も情もなく、口先だけ上手い、というさらなるモブ性を追加していくことによって、「こいつはメインも張れる」と気付いた。まさにいじめっ子が、ある日そうしたモブキャラを発見して、イジリ、イジメの対象として「目をつける」ように、おそらく、永沢君の話ならいくらでも描ける状態にまでなっていた。
そして明らかに、他のキャラクターとは一線を画す、次元の違う存在に上り詰めていく。その出世は、「永沢君」「永沢君 推し!」という漫画にまで到達する。男子キャラクターを主人公としたスピンオフでは「大野君と杉山君」もあるが、これは男の子同士の友情をちょっと長めにやっているだけで、あくまで「まる子が見た」男の子たちの話である。もちろんまる子も出てくる。
しかし、永沢君は磁場をかえる。漫画「永沢君」はみな中学2年生となっており、藤木や小杉、また花輪君なども出てくるが、「まる子」は出て来ない。
一応、第8話 火事の記憶で、みんなで永沢君を励ましたときの藤木の追想に「まる子」がいるし、スペシャルの修学旅行編で、京都から1人大阪に吉本を見に行った野口さんが「さくらさんにもグッズを買って帰ろう」と考えているので、「同じ中学にまる子もいること」はわざわざ示されているが、作中に一度もその姿は出ていない。永沢君がいれば、まる子はいらない。
たぶん、さくらももこにとっては大変な驚きだったのではないかと勝手に思う。なんせ、まる子という自分、コジコジというファンシーな、非現実なほど能天気な生き物を除けば、唯一主人公に出来たのが「永沢君」である。
これは、やっぱりすごいことのような感じがする。永沢君の話の前提として、ちびまる子ちゃんの全体のことを少し俯瞰すると、さくらももこは、漫画以降エッセイストとしても大成功するとおり、「ちびまる子ちゃん」も「自分とその周辺の出来事」を描いている「エッセイ漫画」である。これは他の国民的アニメ、サザエさん、ドラえもん、クレヨンしんちゃんなどとの大きな違いだ。もちろん、ちびまる子ちゃんにも、さくらももこの記憶ではないところから、つまり創作したキャラクターもいる。永沢君もその1人だ。
しかし、それでもあくまで、まる子はさくらももこ本人である。藤子・F・不二雄はのび太ではないし、長谷川町子はサザエさんではない。どれだけ要素を抽出していても、本人ではない。ちびまる子ちゃんの場合は、まる子が小学3年生を過ごした1974年を18巻分繰り返しつつも、「まる子はさくらももこ本人」であり、この少女がいずれ「この漫画」を描くという魔法がある。
これはメタフィクション的な意味だけではなく、自分をどう描くか、という自意識の問題が常につきまとっていることを意味している。「ちびまる子ちゃん」が圧倒的人気になってから描かれた「ひとりずもう」は、「ちびまる子ちゃんがさくらももことなるまで」の時間軸に沿った自伝的な作品を描いている。
他にも、さくらももこは、スピンオフ的に、「さまざまな時代の自分」を1話完結で描いている。特に初期にその傾向が強い。「いつ」の話を描けるか、またウケるかを探っていたのだろうと思う。
それらも大変魅力的だけれど、結局は小学3年生の「ちびまる子ちゃん」しかなかった。それは、そこに永沢君がいたからである。
ちびまる子ちゃんの漫画、第一話は、一学期の終業日に、まる子が大量の荷物を学校から持って帰っているところから始まる。夏休みという信じられない幸せに向かうには、これまでの怠惰の決算をしなければならない。
これは、人気が出るかという不安を抱えながら、連載第一話を描いている、ここで頑張らないと漫画家になれない、という「さくらももこ」の決意を表現しているとも読める。
そして、同じように終業式に大量の荷物を持って帰っているマヌケを見つけ、どんな奴かと確認しようとしたら姉だった、というトホホ系で、ギャグ漫画として連載が始まる。このとき、まる子とお姉ちゃんはほとんど性格の区別がされていない。
これはお姉ちゃんに限った話ではなく、第1巻では、お母さんもお婆ちゃんも、ヒロシも友蔵も含め「貧乏で間抜けな私の家族」というのが主なボケのラインだ。(お母さん、お姉さん、お婆さんの名前は、ヒロシや友蔵と比べて知名度が低いと思う、7巻以降の登場人物一覧でも、ヒロシと友蔵だけは名前も記載されている。もしかしてこれもジェンダー?)
新しく18巻も出たけれど、これまでの17巻の最終回は、第1回のリミックスである。そこでは、絵柄の変更ももちろん、お姉ちゃんは計画的に荷物を持ち帰っているしっかり者、という大きな変化がある。
1話と最終話はお姉ちゃんという登場人物だけに限った変化ではない。
1974年という同じ時間のなか「ちびまる子ちゃん」は、まる子が間抜けで愚図なドジから、徐々に「ちょっと年寄りじみてズボラな、友だち想いの普通の女の子」に、つまりさくらももこ本人から、国民的アニメ(漫画)のキャラクターへと変貌を遂げていく過程でもある。作者としては、「自分」を面白く描いていたつもりが、いつの間にか「みんな」つまり日本人の読者に好かれるキャラクターたちを描いていた、という変化があったのではないかと思う。
たとえば、当初は「我が家の貧乏」をネタにしていたのに、やっぱり「国民的アニメの主人公の貧乏ネタ」はまずかったのか、途中からはまじ、山田の家のほうが「貧乏」に描かれるようになり、さくら家は作中で中の下、くらいに落ち着いている。
「ちびまる子ちゃん」は、一直線の時間が流れていない、という意味で、ストーリー漫画ではない。しかし、「作者の家族自虐ネタ」から「国民的漫画(アニメ)へ」と変化していくストーリーは確かにある。
そのもう1つのストーリーのコアにいるのが、ズバリ、永沢君である。
永沢君の発見によって、ちびまる子ちゃんは「さくらももこ本人の面白雑記」から、国民的人気を博する存在となったのだ。
まず、永沢君のタマネギ頭である。登場人物で唯一の奇形であるこの頭を描くことに、さくらももこはやはりそれなりの葛藤があったのではないかと思う。そしてときおり、永沢君はその頭の先端に、明らかに尋常ではない小指サイズの帽子を乗せていることがあるが、このあからさまな作者のボケに、作中一度も、キャラクターがつっこむシーンはない。当時のギャグ漫画をさらったわけではないが、これは相当高度なお笑いだと思う。
そう、永沢君はツッコミを許さないのだ。
当初、その許さなさは「火事の被害者」という外的な要因に依っていた。話が進んでからも、「火事の尾を引く永沢君」の描写もあるが、どんどんとそのキャラクター性だけで「誰にもボクのことは悪く言わせない」という「凄み」が増してくる。
大野君や杉山君のようにイケメン人気者ではない。花輪君のようにキザな金持ちでもない。はまじのようにお調子者でもない。
陰湿で嫌みで、圧倒的なモブ男子でありながら、しかし「他人に弄られること」だけは絶対に許さない誇り高い男。
誰からも愛されず、誰も愛さない孤高のタマネギ。それが永沢君である。
永沢君はいずれ、「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ。」と言うだろう。
それにしても、作中のおまけページなどで、「作者は永沢君(と藤木)を嫌っている」ことが度々繰り返されている。主人公として漫画を描く程でありながら、作者が積極的にその存在を嫌うことを積極的に明言するキャラクターは非常にめずらしい。
ここには、どんどんと自分から遠くなっていく「まる子」への哀惜も込められていたのかもしれない。あまりに深まった愛憎のために、さくらももこは「まる子」を憎むことは当然できない。それは読者への、アニメ視聴者への、もろもろの成功への、自分に夢を見た自分を裏切ることになる。
しかし、どうしても居心地の悪さは拭えない。「明るく楽しい、いい子」より、意地悪く、陰険なものにこそ「面白さ」を感じてしまう。このタマネギ頭の少年に、そうした暗さを全部かぶせてやる。人に愛されない感じのなかにこそ、ギャグの必要はある。
まぁ、これは私の勝手な妄想ではあるが、「ちびしかくちゃん」という、まる子、特にたまちゃんをひたすらに陰険にしたパロディも描いているのも、「ちびまる子ちゃん」への居心地の悪さへの1つの根拠にはなるだろう。
さくらももこは天才だが、同時に「自分」以外に描けたのは、コジコジと永沢君だけなのである。
「永沢君、推し!」で描かれている、永沢君誕生秘話の小説によれば、永沢君は生まれつきまったく可愛げがなく、第一声は「いやだ」だったらしい。
この人物描写は、『夜の果てへの旅』を書いたフランスの小説家セリーヌの墓碑に「否」と書かれている、という噂(実際は違う)や町田康の『告白』の「あかんかった」という台詞を思い出す。
しかしこれらはしょせん、終わりのための言葉である。
生まれてはじめて発する言葉、それは両親があまりに待望しているため、一生忘れられない記憶として残るほどのインパクトを出せる、数少ないチャンスである。
永沢君の「いやだ」は、そうした待望全体への否定である。
あなたたちが私に望むこと、それを私は拒否する。
あなたたちが将来かなえたいこと、それを私は拒否する。
あなたたちがよろこぶこと、それを私は拒否する。
あなたたちの人生、それを私は拒否する。
しかしそれほどの孤独を抱えながらも、永沢君は生きていく。生きてあり続けている。
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