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僕がトレーナーになった理由
誰にでも、なぜその仕事をしているのか、というきっかけや動機となった出来事があると思う。トレーナーと言う仕事をしている人の中には、自分が競技をやっているときに怪我して、満足な競技生活を送れなかった、という人や、その時お世話になったトレーナーに憧れて、という人が多くいるけど、自分はむしろ、競技生活中怪我とはほぼ無縁だった。けど、トレーナーになって絶対に日本スポーツ界を良くしていこうという思いに至った経緯があった。今回はそんな話を綴りたい思う。
プロローグ
この記事では、その存在が社会でまだ認知されていなかった時に、トレーナーという仕事を僕が志したきっかけについて記そうと思う。
思い起こせば、きっかけはたくさんあって、その全ては僕がトレーナーになることを後押ししてくれていた。記憶の中を掘り起こして綴るので、出来事の多少の前後は勘弁して欲しい。笑
なんせ25年も前だ。。
コーチという立場から得た気付き
高校生の時、アメリカンフットボールという競技をやっていて日本一になった。日本一になりたくてアメフトを始めた。アメフトで日本一になりたかったわけではない。この辺が僕の「人と違うひねくれたとこ」なんだが、日本一になれることをやりたくて、アメフトを始めたのだった。
入った高校がアメフトなら日本一になれる高校だったから、アメフトを始めた。そのあたりは本記事の主題から外れるから、また今度どっかで。笑
3年生の時、そのアメフトで日本一になって、目標は成し遂げられた。。だから、大学に入って「競技を続ける」という選択肢と「高校でコーチをする」という選択肢があったとき、競技生活に満足してしまったことや、裕福とは言えない生活環境もあって、コーチならバイトしながら続けられる、と安易に後者を選んだ。
それで、気づくのが遅いんだけど、コーチという立場になって初めて、自分に「アメフトを教えること」のモチベーションがないことに気づく。そこまでコーチになってから3年かかった。。つまり、大学3年の時、「あ、俺アメフトを教えたいっていう強烈な動機は持ってない。。」って気づいた。
これもかなりの衝撃的なエピソードを通して気づいたわけだが、それもまた今度どっかで機会があれば。笑
その時僕は、「本気になれること」を探していた。コーチという立場に一生懸命になっていたが、「本気」じゃなかった。
本気って何?残念ながら、高校の時、日本一を目指していた時、自分でそれを知ってしまっていた。全身全霊をかけて打ち込めるもの。すべてを犠牲にして打ち込んでこそ「本気」。そう思っていた。
だから、自分がしているコーチ業が本気だって思えなくなった瞬間、自分の存在自体が選手に対して大変失礼なものだと思うようになった。
そんな時、チームを強くするために必要なことってなんだろう、って考えるようになって、トレーニングや、怪我したあとのリハビリなどに興味を持ち始めた。
大学4年になる時、「本気」になるためには、チームに貢献する形を変えるべきだ。そう思って当時はまだその存在すら珍しかった、「トレーナー」という形態でチームに携わらせてもらうことを願い出た。
もちろん、どうやったらいいかなんて、わからなかった。
けど、コーチ、という形を「本気」でできなかった自分も、トレーナーという形なら「本気」になれるんじゃないか。そう思ったからだった。それまで勉強なんてこれっぽっちもしなかった自分が、初めて学んでいて「楽しい」と思えたのが、「ヒト」について学ぶことだったというのがその理由だった。
当時、トレーナーという存在自体を認識してもらうのにすごく労力が必要だったけど、どうしたらチームが強くなるのか考えた時、一番伸び代があるのは怪我の管理やトレーニングの内容を充実させることだと、その時は信じて疑わなかったから突き進めたんだと思う。
そうしてトレーナーという立場を構築してもらって、その立場に居座った。笑
今思えば、監督や顧問をしてくださっていた先生方の器のでかいこと。。
ありがとうございます。こうして、コーチという立場から、勉強していて楽しいことなら本気になれるトレーナーという立場に変わり、トレーナー真木伸一は産声をあげました(^^)
リトルリーグ時代の恩師との別れが導いた「思い」
そんなときだったと思う。小学校のときにやっていた野球チームの監督が亡くなった。めっちゃ厳しい監督だったけど、温かみのある人だった。大好きだった。同学年に監督の息子がいて、葬式に呼んでもらった。その葬式に、小学校の頃一緒に野球をやっていた、
「才能あるメンバーたち」
が集まった。
僕は「才能のないメンバー」側だったと思う。笑
もう20歳も過ぎてたんで、一緒に酒なんか飲んだりして話したんだが、聞いてみると誰一人、野球を続けていなかった。。
なんで?
お前くらい才能のあるやつが、なんで野球やめた?そんなやつが一人や二人じゃなかった。。みんな、理由が怪我だった。。怪我しても、痛くても、そんなこと言えない。休んだらすぐにレギュラーでなくなる、試合に出られなくなる。それが普通だって、その時彼らは言っていた。
「真木、それが普通だよ」
「そういう競争を勝ち抜いたやつだけが、上に行くんだ。」
そう言われたと思う。競争って、そういうもんか?じゃあ、怪我した時、お前らは適切なサポートを受けたのか?必要な医療は、提供されたのか?正しいことしてないのに、わからねーじゃねーか!
その時、当時若かったのもあって、激昂したのを覚えている。
「絶対、間違ってる」
そんなスポーツ界、絶対変えてやる。
だって、才能あるやつが適切な管理のもと、より高いレベルで競争できたら、国際競争に名乗りを上げる選手の数は絶対増えるんだから。
そんな日本スポーツ界を作りたいと思った。その時から、自分は日本スポーツ界を変える存在になるんだ、と意気込むことになったわけなんだ。。小学校時代の恩師が亡くなって悲しかった。それと同じくらい、仲間が怪我して苦しんでいた時、怪我を理由に練習を休めない、それが「普通」とされていた環境に腹がたった。
今思えば、一番つらかったのは、怪我が理由で引退した彼らだったのに、思いやることができなかった自分の若さを今、恥じている。
けど、そんな出来事が、自分の強烈な動機を生み出すきっかけだったと思う。
「今どき怪我で引退する選手っているんだねぇ」という社会を作りたい
それからトレーナーという仕事をすることになるんだけど、その時「日本のスポーツ界を変える!」って思った気持ちは、今でも全く色褪せない。
なんでか、それはわからない。。
25年以上も、思い続けている。
今では、「変える」なんて思っていたら「変わらない」と思っているので、多少形は変わっているのだけど。とにかく、本気になれる、って思ったコーチ業からの転身と小学校時代の友が競技を引退した理由を作り出した環境、それがトレーナーとして活動する上での強烈なモチベーションになった。
正直言うと、自分には関係ないこと、つまり、他人が怪我で競技を引退していたことで、なんでそこまで自分にモチベーションが湧き上がってしまったのか、皆目見当がつかない。。
ただ、なんかその時のこと強烈に覚えていて、とにかくその時、トレーナー真木伸一は、日本スポーツ界をなんとかしようと立ち上がったんだ。
未だに、暴力的な指導や怪我が理由で引退する選手は後を絶たないし、そんな話を耳にするたび、心がチクチク痛む。
まだ自分の望む社会は実現していないか、そう思って残念な気持ちになる。自分が関わった選手が、怪我を理由に引退したことだってある。そういう選手のことはずーっと忘れられなくて、今でも
「あいつがもう一度目の前に現れたら
今度こそ絶対になんとかできるように」
そう思いながら日々研鑽している。
今、株式会社Re-Viveは、「怪我で引退する選手のない世界を実現する」というMissionのもと活動していて、本気でそういう社会がいつか来る、と信じて走っている。自分でも不思議なんだけど、、そのモチベーションは20年以上も前に生まれたまま、形を変えずに今に至る。。たいしたエピソードじゃないんだけど、いまもその出来事をきっかけに全力で走り続けられているのは、事実なのです。。。
エピローグ
大学時代に初めて学ぶことが面白いと思ったヒトの体のこと、コーチ業から転身するきっかけとなった「本気」という気持ち、小学校時代の恩師が導いてくれた友との再開がもたらした強烈な動機。
これらの事が相まってトレーナー真木伸一とRe-Viveは作り出された。
トレーナーとして学び始めたときのことや、どうやって学んでいったのか、どんな経験や失敗を通して、今があるのか。そういったことも、これから同じ道を志す方々のお力になれたらと思うので、時々こうして記していこう思う。
この記事を読んで同じ思いを共有して下さるあなたといつか
「怪我で引退する選手がいなくなる世界」
を実現させるために。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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