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小池博史ブリッジプロジェクト『Fools on The Hill』

全体概要

小池博史ブリッジプロジェクト『Fools on The Hill』は2020年の1/17~23に、中野のスタジオサイで上演されました。
小池博史ブリッジプロジェクトは、演劇、ダンス、舞踏、美術、音楽等々の垣根を払い、新しいメディアと伝統芸能が同居するような越境的な舞台芸術を創作なさっています。これまで、『注文の多い料理店』に端を発する、宮沢賢治に着想を得たシリーズや、何部にも別れた長大な『マハーバーラタ』のシリーズが展開されてきました。そして今回の『Fools on The Hill』は、2018年初演の『Strawberry Fields』を受けた、ビートルズシリーズの2作目となっています。

普段の小池さんの作品では、身体性やイメージの連鎖を重視して、音や映像、美術、そしてなにより踊りの力で世界を動かしていく、言葉少なで多義的な空間表現が顕著にみられました。言葉が少ないこともあってか、失礼ながら次第にまどろんでしまうこともしばしばなのですが、それは様々な境界を溶出させることで、夢まぼろしのような彼岸――あの世を舞台上に立ち現そうとする作風に対応してもいるでしょう。
今回の『Fools on The Hill』においても出演者の身体の表出は目立っていましたし、現実味を欠いたシュルレアリスティックでサイケデリックなイメージの快感から物語は構成されていたのですが、言葉が多く、はっきりした物語を見て取り易かったことがその顕著な特徴として挙げられます。
おそらくその理由として、まず今回の原作がビートルズの楽曲であり、その世界観が文学作品に比べると比較的に鑑賞者のイメージに委ねられていたことが挙げられると思います。賢治やマハーバーラタは言葉でしっかり定められた原作の地平があるからこそ、イメージによってそこから飛翔できたのでしょう。対して今回は、まず観客と一定の世界観を共有するために、言葉が必要になったと言えるのではないでしょうか。
それから愚者をモチーフにした本作では、現代社会における情報の非対称性と、その情報の定かでなさが主題となっていました。この情報の応酬の滑稽さを描くに際しては、登場人物を普段よりいささか雄弁にするのが自然だったのだと思われます。
ある丘に住む三人の男女と、そこへやってきた殺し屋、記憶喪失者、学者といった数々の人間。彼らはやがて丘を降りることが出来なくなります。実際にはそんなことありえはしないのだから、象徴的な意味のレベルではこの閉鎖的な現代社会のメタファーとして丘を解釈できるのですが、作品内での現実的な地平では、何人もの人間が住みこみ、抜け出せなくなったこのヒステリックな丘は、誰かの、或いは集団の見ているひとつの強迫観念的な妄想や夢だと解釈するのが自然であるように思われます。
丘にもとから住む人々は、この丘についてのなんらかの情報を握っているようなそぶりです。だから、本当のことを教えろと言う後続の人達との間で、何度も諍いが生じます。それに、この世界には時折現れる医者と看護婦がいて、どうやら彼らが丘の秘密を握っているように思われてならないのです。
このような情報の非対称を描いた上で、最終的には、誰もなにも丘の秘密について本質的な理解には至っていなかったことが明るみに出されます。
性欲や食欲を奔放にさらけ出す、稚気に満ちた身振りのこの人々は、なにがほんとうかもわからないトラウマティックな夢のような丘の世界で、ただただ周りに流されながら盲目的に前へ進み続けるかのようでした。
ところで彼らのさらけだすこの稚気は、人間が持つ原初的な力の自然な発露ともいえるでしょう。舞台上の身体表現の根源的な力強さには、人間が前に進むための活気と、盲目に目の前のものを追い求めてしまう動物性とがシニカルに重ね合わされていると考えるべきではないでしょうか。

以上、作品の全体概要となります。以下はこの作品への批評となっております。

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プロローグ

極悪人でもなく、聖人でもなく、何者にもなれようがない。ちょっとした生活の一部で自分をすべて暴かれてしまったような気がする日もあるわけで。吹けばとぶ軽々しい自分自身、それを後生大事に抱えて、背負い続ける私としての責任に押しつぶされそうになるくらいならいっそ、自分自身というものを捨て去って、社会的な共同体の一部分として、自己を融解し、大勢の人々と共有される役割を演じるが故の、それ一般としての独自性を保っていたいじゃないか、あるいは、責任みたいなものを誤魔化してしまおうじゃないか、なんて、考えてしまう日もあるわけでして。その弱さに今日1日くらいは、酔ってしまいましょうか。プリミティヴな祭日にて炎を囲みながら、ディオニュソス的なものに身を任せ、傍らには私の身体に囁きかけてくる美しい音楽と舞踏。悪魔でしょうか?ただの狂人でしょうか?そこに救いを見出せましょうか?私は、私を再び見つけることができましょうか。ガリレオの丘の上で。

The Fool/Fools

 『The Fool on The Hill』、その曲を聴いたことがありますか。聴いたことがある人も、ない人も、この舞台を見るべきでした。これが音楽であり、物語である。これは物語であり、詩ではないけれど、物語それ自身が、雄大な比喩となり、歌詞になるというわけなんでしょう。
ビートルズの楽曲が『The Fool on The Hill』というタイトルを冠するのに対し、その曲にインスパイアされた小池博史さんの「ビートルズシリーズ」二作目は、そのタイトルを『Fools on The Hill』と名付けられています。全く同じ題名を冠することにはならなかったこの二つの作品には、当然それぞれ違った登場人物たちが現れ、ビートルズが歌う、丘の上で微動だにしない阿呆面の男は、この舞台においては「ガリレオの丘」に集結する13人の男女となるのです。丘に住む3人の男女(夫婦、唖の女)、引き寄せられるように丘にやってきた、目的も職業も生い立ちもバラバラの人々、そして時折丘に現れる医者と看護師。彼らfoolsが、この舞台を動かし、この舞台に動かされていく登場人物であるわけです。
ビートルズのThe foolーー愚者は、タロットカードの大アルカナのうちの一つでもあるわけですが、このカードには、切り立った崖に向かって歩み行こうとする旅の男の姿が描かれています。崖に向かって歩いていくという姿は一つの盲目的な愚かしさの記号であるといえましょう。かの有名な懐疑主義者ピュロンの伝記的記述にも、彼が崖に向かって歩いて行く描写があるといいます(たしかに究極の懐疑は、日常生活においては愚かしいとしか見えない仕草を要求するでしょう)。あらゆるものから解放され、自由を享受している愚者は、全ての確信から遠ざかるからこそ、崖に向かって歩いていく愚を犯してしまうのです。とはいえ、金色の空に浮かぶ白い太陽が彼を明るく照らし出し、足元の白い犬は愚者を気遣い、彼は、自由であるがゆえの不安、の中にいるわけではないということも同時に示されます。このありかたは、ビートルズの楽曲中の男にも見ることができるでしょう。一方、The foolではない、foolsの彼らは、明るい光に照らされながら自由を享受する、というわけにはいかないようです。自分たちの意志で丘にやってきたはずが、いつの間にやら丘に閉じ込められ、水も食料もなく、時折医者や看護婦が運んでくる手紙は意味深長ながらなんら解決の手がかりを与えることはなく、いったい誰が自分をこうした目に遭わせているのか、彼らはお互いに疑いの目を向け始めます。彼らの確信できなさは、自由を意味しません。彼らの確信できなさは、底無しの懐疑へと彼らを導いていきます。彼らを照らす太陽は人工の太陽であり、何もかもがダミーである、ということが明らかになるクライマックスでは、何が信じるに足ることで、何がそうでないことなのか、そう問うことすらもはや意味を持つことではあり得なくなり、それでもなお盲目的な前進をやめられない彼らの姿は、「混沌を極める現代社会へのFoolsの問い」として私たちに投げかけられるのでした。

イメージの食事(名前)

中野の住宅街にあるスタジオサイという名の平屋の、その母屋の一室の白い壁の、スタジオ天井のスポットライトが照らし出す薄くかかった靄は、青く、白く、とめどなく動きながれていくのでした。青い椅子に男が座り、男の赤いシャツが座り、彼の頭髪は短く刈り込まれ。彼は白い・千切れた服の女に、ピストルを構える。銃身は金属ではなく、彼自身の指なのですが、重心を傾けて、女を撃とうとするその仕草の時、悪夢ではよくそう、銃声は私の声で、それでもなぜか、そのピストルで、人を殺せると思っているんです。もちろん男は女を殺すつもりはなくて、そう、それどころか、男は女に触れるために、両手を伸ばしさえするのですけれど。これは、イメージの食事。男の妻がそのセリフを口にするときに、三人は、揃って食卓について、見えない食事をとるのだけれど、そのジェスチャアそれ自体は、イメージの食事、ではなくて、食事のイメージ、にほかならないのですけれど、イメージの食事、という発話によって、彼らのジェスチャアが、イメージの食事、に見えたりしました。彼らはイメージをガツガツと口に含んで、汚らしく咀嚼し、嚥下していました。そのイメージの食事のイメージは、私の中に移住し、それはこの演劇の他のシーンでも、ふと思い出され、食事のジェスチャアなしに、彼らが食事を始めるということがよくありました。
なにしろ彼らは名前を持たないのです。名前を持たない彼らは、彼ら自身イメージなのでしょう、多分、おそらくは。誰の?私たちの?作り手の?彼らの?その全てでありましょう、多分、おそらくは。彼らの名前を知ることができれば、私たちは、はじめの関係性がどうであれ、彼らにとって対等で中立的な存在になれるはずなのですが、名前がなければ、私(彼ら)は、関係性でしか語られることがない。私(彼ら)は名前によって関係性から解放され、自己に縛り付けられることとなる。名前を語らないことは、関係性への埋没であり、自己の放棄です。名前は私に対して、対等で中立的ではなく、名前は刻印し、支配し、欲望し、名前それ自身もまた、私(彼ら)として宿命づけられ肉体に縛り付けられた何物かになるのでしょう。刻印から逃れ、支配から逃れ、欲望されることから逃れ、そうして、身ひとつで、生きていきたい、と思うのは勝手ですが、もちろん、それを実現したいと強く願うのならば、ガリレオの丘に、私も向かわなくてはならないのです。私は私の意思で、ガリレオの丘に向かうのです。名前を持たない何者かに、責任を問うことはできそうもない。しかし、それでも我々は、名前を名乗らないことの、責任を、問われることになるのでしょうか。この靄は、何を包み隠しにし、われわれの目から何を遮っているのでしょうか。世の中に蔓延る様々な信仰、その明文化されない教則を侵すことで、私はその宗教者から嘲られ、軽蔑され、憎まれ、疎まれ、彼らの目に映らない透明な存在になるのです。私は、人であることを剥奪されるでしょう。みんなはぐれものなのよ。恋に狂う女は呟きます。それがわかっているのになぜ?なぜわたしたちはお互いをお互いの敵対者として、憎んでしまうのでしょうか。疎んでしまうのでしょうか。みんなはぐれものなのよ、だからここに来てしまったのに。霧に包まれて、時折現れる医者さえも、水さえも、イメージであるから、いつも渇ききっている。これは妄想の女の妄想なのでしょうか。彼女のかき鳴らす楽器の音が響く。私よ、私!と時には叫んでみたりするけれど、彼らのうちの数人は、自分が丘にやってきた理由を、丘に来る以前のことを、静かに語り始めるのですけれど、名前を失ってしまい、関係性一般そのものと化した彼・彼女には、固有の物語は存在せず、固有の意志は存在せず、いつかどこかで聞いたような言葉で、いつかどこかで語られたような気がする物語を、歴史を、口にするだけなのです。古臭い劇に出てくる定型文的な人格たち(金しか信じられない、だなんて!私と一緒に生きて、だなんて!)。

イメージの食事(身体)

あなたをあなたたらしめているのは、もちろん名前もそうなのですけれど、あなたの身体もまた、あなたをあなたたらしめています。身体は、名前とは違います。決して自分自身から切り離すことができない。生まれた時から私は私の顔をもち、四肢をもち、あたたかな内臓をもち、しわだらけの脳みそをもち、これは、これこそは、私が私であり、比喩的な広がりを持つ何者か一般として自己を溶解させることができない最後の砦であるように思えます。しかし、同じ動き、同じ前屈みの歩行、あるいは呼応する、呼応することが予め定められている動き、によって、あなたはさらに他人の中に埋没しようとするんです。埋没したい。埋没することは、心地いい。わたし本当に、一生ここにいたいんです!こんなに気持ちが良くていいんでしょうか!話すべき言葉がある。その不自然さ、心地よさ。もちろん幕引きの後には、皆照れ笑い浮かべているんです。そのとき決定的に拒絶された感じがしています。私は一緒になって踊っていたはずでした。私は見ていました。私は目撃しました。他人として、巻き込まれずに、誰の言葉にも共鳴せずに(それは私が自身の名前と、鈍くぎこちない身体を引きずっていたせいなのです)。音声記号としてゴロリと放り出された言葉は意味としてではなく音として心地よかった。いや、意味としても気持ちが良いのだと思います。なぜならば、一度は考えたことがあることだから。飲み込んだ言葉だから。そしてそれを今は批判しようとしているから。うまい批判の言葉が思いつかなくて言い訳みたいだから。そう、古臭い劇に出てくる定型文的な人格たち(金しか信じられない、だなんて!私と一緒に生きて、だなんて!)。その定型文に、再び戻りたいんです。自由とか、自己とか、そういうものを守る為に、あたらしい理由を考えたり、古い定型を批判をしたりするのに、疲れてしまったんです、私は。かつて自由であるからこそそう呼ばれた愚者は、ここにおいて、不自由であるからこその愚者へと変容していくでしょう。

これは、私の、イメージの食事。

白い部屋。薄靄。私は青い椅子に座っています。治療されています。いずれ治療されることになるのです。しかし私の向かいに座っている女が本当に医師免許を持っているのかどうかというのはわからなく、そう信じるだけです、信じなければ仕方がないから。あなたはおかしいので治療しなくてはならない、と医者は言います。私はそれに曖昧に返事して、そんな私に彼女は重ねて言います、いや、とにかく私にはわかりますよ、あなたはおかしい。私にだって、私が少しおかしいことくらいわかっています、ただあなたのことを信じていいのかどうかということを考えているのであって。さあ、そうかもしれませんが、どうかしら、しかし確かに、私はあなたをおびき寄せたのでも収集したのでもなく、あなたが自ら進んで近づいたのだから、そのことはしっかりわかっておくべきでしょうね。そう、だから私自分ではぐれものだってわかっていたんです、少しなら。ええ、あなたの方から治療を望んだのでしょう、そうして私に近付いたんだ、あなたの方から私に近付いたんだ、私はあなたを呼んだ覚えはない、気に入らない?そうであれば帰りますか。けれど、そうは言っても、この丘からは降りられないじゃあありませんか……。
なぜここに来たのか?自分の意思だと思っているだろう、違うよ、そのことが、はっきりと、言葉として、突きつけられる。そのことに動揺したのは、丘の上のFoolsだけではありませんでした。しかし、私は、そのことに慌てふためき、困惑しながらも、どこか心地が良い、とも感じているのです。ここに一生いたい。
この舞台は、混沌を極める現代社会への問いになり得るのでしょうか?Follsに白けた視線を向けるのではなく、あまりに心地よく、あまりに不安定で、あまりに無抵抗な彼らに、私自身も同化して、揺さぶられ、飢え渇き、自分自身を語ろうとしてありきたりな歴史を語ってしまう。この音楽に距離を取ることができなかった。跳び退こうとして巻き込まれた。妄想のような時間でした。今もまだ妄想の中にいるのだと思います。わたしは妄想の中にいることを望みます。それが叶うのならば、愚か者の不名誉に甘んじるほどには、心地いい妄想でした。だから私は、この妄想について沈黙するでしょう。

「なぜ沈黙する?なぜだって。それが生きる術だからです」























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