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テクストの宙を漂え――スペースノットブランク『ささやかなさ』評

 ここでは、スペースノットブランクが上演した松原俊太郎さん作の舞台『ささやかなさ』がどのような表現を志向したものだったのかを、まとめておこうと思います。上演は2019年の10月24日から27日にかけて行われ、僕が観たのは26日の夜の回でした。
 その前に。あえて語りかけるように「です・ます」調をとるつもりでいること、そしてこれがあくまで僕と言う個人に作品がどう映ったかを示すものとして自覚的に書かれていること。それをまず強調しておきます。僕は分かる人に分かればいいという書きぶりも選ばないし、それでいて、僕の経験から離れた客観的な手つきを採ることもしたくないのです。

あらすじ

 あらすじを最初に見ておく必要があるでしょう。主要な登場人物は、「ぼく」(ケイ)、そして女友達のミチコとその彼氏タケルの三人です。
 「ぼく」は物語が始まる前から交通事故に巻き込まれて死んでいます。
 ではなぜ「ぼく」が舞台の上に乗せられて言葉を発することになるのか。それは、ミチコが彼への愛のあまり、自分の中に「ぼく」を復活させてしまったからです。この「復活」が乙女のたくましい妄想による、単なる空想に過ぎないものなのか、それとも再構成された「ぼく」はまた一つの確かな実体としてあるのか。それを判断するのは難しいのですが。とにかく「ぼく」はいまミチコの中に、いる。そして彼女はそのことを通じて、「ぼく」との二人の世界に様々な仕方で影響を与え、ついにはミチコから彼を奪ってしまった世界への、彼女なりのささやかな復讐を果たすのです。
 その後、やがて「ぼく」は「ぼく」であることをやめ、「あなた」へと変わってゆきます。一人称的存在から二人称的存在へ。ここが、少し難しいところですので、紙幅を割いて説明しましょう。
 「あなた」とは、僕たちのまわりにいる、僕たちの世界を構成するところの親密な存在に向けられる言葉です。その「あなた」は友達、恋人、両親、子供たち、親戚、同僚、偶然電車で隣り合わせて話をしたあの人、それからそういうラベリングをどれも撥ねつけるもう会えなくなってしまった特別な人、そういう様々なあの人この人に延長されていきます。
 「ぼく」に過ぎなかった存在が「あなた」になるとは、そういう風に、誰かにとっての親密な存在一般になることです。そういうわけで、「あなた」はおそらくここでミチコにとっての世界そのものになってしまっています。そのことを示すように、「あなた」を演じる古賀さんは、タケルやミチコのパパ、コンビニ店員に警官、学校の先生など、さまざまな存在へとシームレスに漂い続けるのです。
 とはいえ、世界はわたしとあなただけで出来ているわけはなくて。もしミチコと「あなた」が織りなす日々が、その世界の全てであるかのように見えるとしたら、それは彼女の世界が第三者を排除する形で閉じているからです。そしてそのような自閉的な世界は常にもろいものです。なぜなら、どんなところにも完全に閉じた世界などありはしないからです。世界の自閉性ともろさを主題化しているのがこの作品であったように、僕には思われました。
 とはいえ、あくまで舞台作品としての『ささやかなさ』がどのような表現を追求していたのかを浮き彫りにすることが僕の狙いですから、戯曲に向き合えば済むようなシナリオの分析には、ここでは必要以上に立ち入ることはしません。シナリオの細かな解釈は、いつか戯曲が公開されあるいは再演が果たされたときの皆さんの楽しみになるべく取っておきたいと考えています。

夜と霧

 とはいえ内容と形式は不即不離の関係にあるので、作品のメッセージをもう少し掘り下げないわけにもいきません。ステートメントの冒頭に目を向けてみましょう。
https://spacenotblank.com/message/7433
 引用してみます。そこで示されているのは「ヒトやモノの差異がわからなくな」り、「目の前にいるヒトをそーゆーふーな無感情で見ることもできる」状態。そしてそこにおいて放られる、世界への賛美です。「世界ってなんて素晴らしいの。」
 僕はここに、大戦期を生きたユダヤ人の心理学者、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を連想します。これはナチスドイツの強制収容所における経験を分析的に、しかしあくまで彼個人の視点から、私的に、いくぶん物語的に書いたものです。
 持ち物を全て奪われ、かつての社会的立場や人間関係からも切り離されて、ただ収容番号のみで識別される存在となった人びと。そこに個としての尊厳はありません。そして、あまりの身体的精神的苦痛を経て、感情を摩耗させてしまう。
 そのうち、人びとの多くは、抗いようがなく感じられる運命を前に、主体的に決断することを諦めてしまいます。自分の未来を信じることが出来ず、人生の目的を失い、「生きる屍」のようになった被収容者たち。彼らは生きる意味を見出すことがなかなかできません。とはいえそれでも自分を強く持つ人もいました。
 フランクルは言います。「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」と。希望を持つことのできない苦しい状況下でこそ、その辛く具体的な状況が、僕たちにどう生きるべきかという問いを投げかけているのです。ただ運命に流されるのか、それとも考え決断することを辞めず、尊厳を抱き続けるのか。このような発想のコペルニクス的転回によって、生きる意味を見出せない時にも、「なにかをつねに決定する存在」としての、人間のあるべき姿を保つことが出来る。そのようなフランクルの教えは多くの人を感動させました。
 被収容者たちは、辛い時にも美しい芸術や自然がもたらす喜びを忘れはしなかったといいます。彼らが夕日を目にし、「世界はなんて素晴らしいんだ!」と口にする場面は、特に印象深く僕の心に像を結び続けています。

ささやかな時代

 ずいぶんと話が『夜と霧』の方へと逸れてしまいました。けれど僕はずっと間接的に『ささやかなさ』について話してきたつもりです。なぜなら『ささやかなさ』もまた、人々の個性が希薄で、交換可能で、交通事故といった運命に簡単に翻弄されてしまう時代を描いたものだからです。さきほど「あなた」を誰でもあり得るような汎神的な存在だと説明しましたが、それが可能になるのも「あなた」と「あなた」の交換可能性の故です。他の誰でもないかけがえのない『あなた』はどこへいったのでしょう。
 とはいえ『夜と霧』と『ささやかなさ』を単純に類比することはできません。両者には大きな違いがあります。「世界はなんて素晴らしいんだ!」と「世界ってなんて素晴らしいの。」には大きな違いがあります。感嘆符の失われたつぶやきはどこか明後日の方向を向いてすっとぼけた調子です。それは対決すべき大きな宿命がそこに欠けているからではないでしょうか? アウシュビッツでの死はその匿名性にもかかわらず人類の歴史に宿命的に名を残しますが、現代の車道上に運命づけられた偶然の死は、都市の片隅で人類にも歴史にも関係ないほとんど匿名的と言ってよいほど小さなかすかな物語です。
 世界全体での政治的な闘争や「大きな物語」が失効した現代では、人々はそれぞれの行動範囲内でささやかな生を「小さな物語」として過ごしている。というのはもはや随分クリシェ的になった世界の捉え方ですが、この作品についてもその構造は妥当しているようです。人類共通の普遍的な問題はもうあまり存在しない。らしい。東西の対決だってもう何十年も前に終わっているんだし。
 苛烈で宿命的な「大きな物語」の中で叫ばれる人生への賛美と、「小さな物語」の中でなにかを確かめるように投げ放たれる「なんて素晴らしいの」のとぼけた響き。この対照が『ささやかなさ』を強く特徴づけているはずです。
 ミチコに、「あなたが『白鯨』の船長みたいだったら考え物だけど、違うでしょ?」という台詞があります。
 『白鯨』は1851年に出版されたアメリカの作家ハーマン・メルヴィルの長大な長編小説で、大きな白鯨モービィ・ディックに片足を奪われた船長は、自分を翻弄する悪しき運命の象徴、なにか大きな神的なものをその鯨に見ます。そして、これを倒すことで、その神的なものを乗り越えようとするのです。
 けれど『ささやかなさ』には大きな鯨なんかでてきません。それどころかステートメントにまた目をやってみると、「足もとからでっかい鯨が白い飛沫をあげながら現れて、大口開いてわたしを飲み込んでしまった」なんて書いてあります。ここに『ささやかなさ』のささやかさの秘密があります。
 僕たちはもう「でっかい鯨」に飲み込まれてしまって、これと対決しようがない時代を生きているのですね。ミチコは「ささやかな復讐」として「ぼく」と暮らすのだけれど、「ぼく」と暮らしていること以外に「復讐」の要素なんておよそないのです。それはちょうどカウンターカルチャーの文脈で、近代西洋的な経済合理主義への反発から「ていねいな暮らし」がさけばれたことと呼応していますが、ちょっとそんな復讐は可愛いが過ぎます。戦う気がない。
 ていねいに暮らされる鯨の中のぬるま湯のような日々で、僕らは生きる意味をなかなか見つけられません。それぞれがそれぞれの「小さな物語」を生きているのだから、自分の物語の意味は自分で見つけなきゃいけないのです。乗っかるべき階級闘争もなければ、エリート主義的な成功を夢みるのもちょっともうダサかったりする。
 生きる目的がないと一口に言っても『夜と霧』と現代とでは全然その症状は違うのです。過酷な状況に抗する中で意味が喪失していくのではなくて、その闘争の後の無方向的なぷわぷわした生活の中で、生きる目的がやんわり奪われていく。だから「生きる」こと自体を主題化して、ていねいに暮らしていくしか無くなるわけですね。
 だから、せっかくのフランクルの至言もこの時代では役に立ちません。自分の生の意味を問いただしてくれるところの固有のしんどい状況なんてもうありはしないからです。立ち向かう大きな宿命がないという運命。そんな時代に、はたしてどうやって僕らはもういちどかけがえのない個性を、今自分が確かに他の誰でもない自分としてここにいるんだという実感を、取り戻すことが出来るでしょう?

白鯨、汎神論的編集性

 ところで、「ぼく」は『白鯨』の船長みたいではないけど『白鯨』のイシュメイルみたいではあります。イシュメイルはこの小説の語り手です。
 実は『白鯨』はとても奇怪な小説で、まず本編の前に「語源」「抜粋」の項があり、「語源」は鯨と言う語の語源を、「抜粋」は鯨に関する古今東西の文献からの抜粋をそれぞれまとめたもので、これが本編にどう関係するのかは明示されていません。物語の進行に関係のない鯨についての豆知識の描写、雑学的な脱線は本編でも繰り返されます。
 そしてなにより奇怪なのは、一介の航海士にすぎないはずの語り手イシュメイルが、やがては彼の身体が到達できないはずのさまざまな場所にその視線を届かせ、いわゆる「神の視点」から物語を語りだすことです。すると、鯨の雑学や「語源」「抜粋」もイシュメイルが整理したものではないかと思えてくる。どうしてそんなことになるのか、その理由はやはり明らかではないのですが、船という孤絶した環境で大きな海をふわふわと漂う、その漂いのリズム感のうちに、浮遊し汎神的な存在への昇華を導くなにものかが備わっていたのだということはいえるかもしれません。こうして時空を超越する存在となったイシュメイルは、鯨や船などの膨大な知識や神話、歴史、そうした様々なコンテクストにより織られたこの『白鯨』というテクストの海を泳ぎ始めるのです。
 詳述はしませんが、実は『ささやかなさ』の戯曲ではほとんど全ての言葉と内容が一人の人物の語りになっています。その全貌を「ぼく」やミチコあるいはほかの誰でもない誰かのたくましい自閉的な妄想として受け取ることの出来るような、不思議な構造をしているのです。しかしやはりこれは死してしまった少年ケイが、ミチコにより「あなた」という汎神的な存在になった物語と受け取るべきなのだと思います。『ささやかなさ』は「あなた」の語りにそのほとんど全てを包まれているのです。
 すると、ミチコが自分の中に作り上げた存在が、勝手に長大な語りを展開し、自由にさまざまな人物になり替わる存在になるのは何を意味しているのか? これは説明がつきません。けれど、なぜ「ぼく」が「あなた」という汎神へと変貌したかを探ることよりも、そうしたトランスフォームを可能にするような、波のたゆたいをおもわせる不安定なくらつきの上に彼の生活が、そして僕たちの時代が過ごされていること。その方がはるかに重要です。
 ひとつの大きな宿命と対決する時代が終わって現代。それはいくつかの小さい運命を編集していく時代なのだと思います。現代美術の領野では松井みどりさんが「マイクロポップ」という言葉で、現状を受け入れながらもその文脈を編集し、独自の美意識や価値観を作り出すような作品群を括っています。これらの多くは不安定でマージナルな場所に身を置く作家の手で作られています。編集により自分のかけがえのなさを確立してゆく時代。ミチコと「ぼく」の日々が世界への復讐であったとしたら、それは「あなた」の汎神論的な編集性によって為されるものであるのかもしれません。
(『白鯨』についてはまだまだ『ささやかなさ』と比べがいのあるトピックがたくさん指摘できるのですが、本筋から脱線するので控えることにします)

奥行きある世界、ささやく世界

「ぼく」とミチコの関係性は友達と呼ぶにはあまりにただならぬものに見えます。こちらが気恥ずかしいくらいの直裁な愛の言葉が交わされているのです。二人は互いによりかかり合うことでなんとかこの世界を生き抜いているようにも見える。けれども二人は恋人という関係でもない。ミチコにはタケルというれっきとした彼氏がいます。そしてミチコの「ぼく」への愛はそれにもかかわらずタケルへのそれをはるかに上回って見えるのです。しかも「ぼく」はミチコの浮気相手というような扱いを受けているのですらない。友情も恋愛も超越した愛を二人は確立したがっているかのようです。けれどそんな愛には名前がないから、「ぼく」とミチコは「友達」ということになる。
 名前のない関係。名前のない愛。男女の仲が「友達」「恋人」に二分される条件下でそれを拒むこと。それは世界への編集的な復讐と言えるでしょう。けれどもそうした態度は当然世界の側からの攻撃を招くことになります。    
 『ささやかなさ』で、運命的なものへの対決の場面として一番わかりやすく描かれているのが、ミチコをめぐる、生前の「ぼく」とタケルとの決闘の場面です。ここで「ぼく」とタケルとはどちらも古賀さんによって演じられています。
 ここでの演技が面白い。「ぼく」からタケルに移行する際には、古賀さんは首を左横へ回し、左方向に足をずいと出し、観客から見ると2D的なレイヤーで「ぼく」に対峙します。それが、その平面から抜け出て奥へ歩みを進め、半円を描いて元の場所に帰り観客に向き直ると「ぼく」になる。「ぼく」はタケルに比べて一次元豊かな世界に身を置いているのです。
 それは、「友達」か「恋人」の二項対立のうちに三者の関係を捉えようとするタケルと、そこから外れてまだ言葉にならない意味を編集的に勝ち得ようとする「ぼく」の決闘だったということができるでしょう。そしてこのありふれた意味を拒むミチコと「ぼく」の間の「ささやかな差」がタケルを傷つける。でもそこでは「ぼく」やミチコの側でも先に痛めつけられているのです。 
 言葉には、対象を特定の存在に規定してしまう、暴力的なところがあります。だからこそ、そうした暴力を控えめにするような囁きや沈黙が愛されるのがこの時代ではないでしょうか。ミチコが「ぼく」を愛した理由を伺わせる台詞に次のようなものがあります。「何も言わずに寄りそうって、とっても高等な技術なんだね、クソじゃないものはあなただけだった。わたしにはあなたが必要なの。」 
 二人の関係をきっぱり断定的なものにしない仕方で、沈黙する「ぼく」。 
 ところがこの芝居、古賀さんは全然囁かない。むしろうるさい。明らかに意識的にうるさく発話するように方向付けられているのです。沈黙のゆえに愛された少年もミチコの中に入り込むことによって思考がダダ漏れになりおしゃべりになってしまった。『ささやかなさ』とは、この分断の時代で奇跡的に獲得された、密なつながりの帰結としての「囁か無さ」でもあるわけですね。
 そうした「囁か無さ」には色々な意味を読みこむことが出来るはずですが、ここでは一点だけ、そうした言葉の強さが「あなた」とミチコの「二人」の世界に動的なほころびをもたらしてしまっているということだけ指摘しておきましょう。

世界の狭さについて

 先に、タケルは二次元的な世界を生きているのに対し、「ぼく」とミチコは特定の言葉に限定されない奥行きのある世界へと踏み出していることに触れました。とはいえ、タケルの世界は狭くて、「ぼく」とミチコの世界の方は広いのだときっぱり断定することはできません。それは、いささか逆説的ですが、まさに彼らの持つ奥行きに理由があります。
 話はシンプルです。「友達」でも「恋人」でもない無規定的な関係を世間は、世界は許してくれるものではないのです。だから実際にタケルという存在に悩むことになる。異性の仲に局限するとなんだか話が陳腐なようですが、社会の通念としての諸規定から逸脱し、しかも新しい概念を自分で作り出そうともしないで過ごすには、自分たちのルールが通用する範囲の狭い場所に閉じこもるしかありません。
 『ささやかなさ』が上演されたのはMOTIFという狭い小さなギャラリーです。床も壁も天井も白い展示用の空間をホワイトキューブといいます。MOTIFもまさにホワイトキューブ的な場所です。ホワイトキューブは、作品の展示の仕方を左右してくるような空間の要素が著しく排除された、きわめて無規定的な空間だと言えます。そしてクリーンで無菌的な印象を与えもする。まさに上に述べたような、外の世界との暴力的なかかわりを排除する、狭さと無規定性を体現する場所だというわけです。
 加えて先にも述べたように、この戯曲自体、特定の個人の語りに完結するきわめて自閉的な構造を有しています。普通戯曲とは、異なる価値観や言語体系を持つ異なる人々の交差と関係性を形にしていくものですが、この作品はあろうことか一人の言葉に全てが閉じています。一人芝居でもないのに。
 前置きが長くなりましたが、僕としてはここからが本題のつもりです。現代的な自閉とその現代的なやぶれを主題化した舞台作品としての『ささやかなさ』についてここからは紹介させてください。

やぶれなき自閉

 MOTIFがホワイトキューブ的な空間であると述べましたが、それはあくまで「的」なのであって、そこには三点嘘があります。まずは天井が白く塗りつぶされておらず、複雑なニュアンスをもっていたこと。次に窓があったこと。その窓は透明性に乏しくて舞台の外の世界がはっきりとは見えていなかったように記憶していますが、それでもそれは、ゆるい日差しや夜の冷たい暗さなど、様々な光のニュアンスによりいやおうなく空間に変化をもたらす装置だったと言えるでしょう。
 三点目の嘘は、二つの扉の存在です。扉はこちらとあちらを閉じながら、開いてそこに通行をもたらすものでもある。けれど『ささやかなさ』において扉が自閉性の裂け目としてはたらいていたかどうかは、より細かくその用いられ方を見ていく必要があります。
 というのも、『ささやかなさ』では出ハケ、つまり舞台への入退場に扉を用いているからです。普通の場合は、舞台と舞台袖の間には扉なんてありません。壁やカーテンが覆いになるので、その裏側に俳優が移れば、彼らは直ちに舞台から消えたことになる。けれども『ささやかなさ』では扉を開け閉めして出ハケを行うので、取っ手に手を伸ばし、握り、下に押し込み、こちらに引いて空間にやぶれめをつくるその動きが、観客にも見える仕方で作品内部のうちに取り込まれているのです。
 これは意図的な選択です。扉のある場所を舞台にしても、たとえば壁に背中をぴったりつけて視線を虚空に向けたりしたら「あ、この人はハケたのかな?」と観客は想像してくれるものだし、あるいは扉をずっと開け放して上演する事だってできたからです。
 扉の開閉が作品内部に取り込まれているということは、そのような仕方で舞台と外界との境界を汎神的な語りが包んでゆくことを意味しています。つまり、MOTIFという場所の自閉性は奇妙な仕方で外の世界全体に延長されてしまうのです。ならば、もはやこの世界にはやぶれる契機などありはしないのでしょうか。
 作中で、俳優が握った氷を手放し、床に落とすという印象的なシーンがあります。白い空間に溶けてゆく透明な氷。
 溶ける、そのプロセスは過ぎてゆく時間を意識させますが、透明な固体の氷と、溶けたわずかな水と、それが揮発し気体になった状態は、MOTIFの透き通るように白い床と壁を背景に見分けがつきません。実際、氷が床に衝突して立てた大きな音が印象に残りこそすれ、落とされた氷の姿は以降ほとんど僕の目に止まることはありませんでした。
 つまり、『ささやかなさ』においては過ぎ去る時間も透明な水のようにさらさらと流れているだけで、それはなにか有意味な状況の変化をもたらすものとは思われないのです。ないのと変わらない時間。この作品が閉じているのは空間上だけのことではありません。時空全体がいくつかの変化を内包しながら強力に閉じているのです。
 出演、としてクレジットされていたのは古賀友樹さんと西井裕美さんの両名ですが、実は演出の小野彩加さんと中澤陽さんも作品中のある役柄を演じています。演出のお二人は観客から見て奥の方でずっと椅子に腰掛けていて、観客と共に出演の二人を見届けています。そのような仕方で観客の受け取る作品世界の中に彼らは既に居場所を持っているのですが、さらに作品世界内の人物にもなり替わってしまうのです。これでは演出と出演の区別はまるでつきません。「出演」と「演出」。それは文字をふと組み替えてみるような軽い編集的操作で直ちに相互に入れ替え可能な存在だというわけです。このような形で、通常なら作品の外部にいるはずの「演出」家が作品の内部にいることもまた、この伸縮する自閉空間の性格を強めています。考えてみれば演出家は作品の方向性を大きく規定する強権的な存在でありながら、ふだん観客の視線にさらされることはありません。俳優と演出家が双交通的に同じフラットな地平に立つことは、舞台芸術の今後のあるべき姿を示唆しているようでもあります。

テクストの内へ

 実は、戯曲を見ずにいきなり観劇した場合に、『ささやかなさ』はその『白鯨』的構造――すなわち、ある一人の超越的な語り手が自在に視点を行き来して全てを語り出しているような構造 ――には、気づくことができないようになっていました。
 たとえばト書き(或いは地の文)と「ぼく」の語りが間をおかず立て続けに話されるような表現をスペースノットブランクは多用していたのですが、その正体に観客はなかなかうまく到達することはできないはずです。
 小説『白鯨』の場合は一人の語り手から語られるのに対して、『ささやかなさ』では複数の身体が目の前にあることがその一因でしょう。けれど、複数人で演じるにせよ、戯曲の構造をなんらかの仕方で提示しようとするのは演出方針としてきわめて自然なはずです。
 『白鯨』の構造を読者が容易に見てとることができる最大の理由は、彼らが本の外、テクストの外にいることです。対して『ささやかなさ』では観客は俳優と境界のない同じ一つの部屋で、そのテクストを中から体験します。
 延長し収縮する自閉性と個の融解の、内側からの体験。それこそが『ささやかなさ』の本質であったように思います。
 舞台と客席の間に想定されている見えない仕切りのことを「第四の壁」と言います。普通俳優と観客は目が合いはしません。それは「第四の壁」にはばまれてのことです。
 ところが『ささやかなさ』には次のような場面があります。「ぼく」とおばあちゃんが会話するシーン。ここでは、古賀さんが観客の方に歩み寄り、一人一人観客と目を合わせ手で相手を指し示して、話しかけているのはあなたですよ、という風にサインを送りながら、「ぼく」とおばあちゃんの台詞を交互に話すのです。だから、古賀さんが「ぼく」の時に話しかけられた人はそのときおばあちゃんの役をあてがわれていることになるし、その逆も然りで、演出家ばかりでなく観客までもが、否応なく作品を構成する人物の一人として、「出演」として、その場に居合わせることになります。

配置のドラマ

 観客が作品世界を体験するというゆえんは、「第四の壁」の不在にとどまりません。観客の視座の問題があるのです。
 『ささやかなさ』では、俳優の身体と言葉は極めて特殊な現れ方をしています。それを説明するために、改めて物語の構造に言及したいと思います。
 Powers of Tenという映像作品のように、人と人の境目がなくなって見えるくらいの高さで浮遊する視点から、話は語られています。作品は、古賀さんが伸ばされた右のてのひらを少しずつ上に持ち上げながら、建物、町、島、海、星を視野に収めていく、どんどん視点の高度を高めていくような語りを口にするところから始まるのです。
 とはいえここでいう「高度」はなにか物理的な空間上の位置を指していうのではありません。それは何度も繰り返すように、高くなればなるほど人と人、人と物の区別が曖昧になるような(つまり言葉による概念の規定も溶け出していくような)、地に足ついた現実の世界から離れてゆくための距離とでもいうべきものでしょう。
 世界から「浮いて」しまう「ぼく」とミチコ。人と人、人とモノを交換する世界の編集が可能になるのも、そのような視座においてのことです。『白鯨』の語りは海の上を漂いますが、『ささやかなさ』の語りは宙に身を浮かべているのですね。
 けれど僕ら人間、この物理的な存在は浮くことができません。だから、なにか特殊な舞台装置や美術を使用しない限り、語りの「高度」を示すには特殊な表現が必要になります。
 その例は、たとえば冒頭の古賀さんが示したような、地面に水平に伸ばされたてのひらの床からの高さ。ミチコを演じる西井さんは時折床に手をつけて四足歩行のように動きます。僕などはそこに動物的なものというか、野性を感じて楽しんだりしていたのですが、「高度」を示すところのてのひらが地を離れていないことこそが、おそらく大事なはずです。
 古賀さんが西井さんを肩に背負って持ち上げるシーンは、ミチコが「あなた」の力を借りてなんとか辛い世界から離れているように僕には見えました。これも、「高度」の表現の一例でしょう。西井さんは腰を折り曲げて床を見つめながら歩く場面も多かったです。最初はおばあちゃんかなと思いましたが、やがて気がつきました。この姿勢は、上空から世界を見下ろしているのかもしれない。
 するとたとえば世界を見下ろす上空から、てのひらを床につけた「高度」ゼロの位置へ降りるには、腰を負った姿勢から手を床にぺたっと伸ばす一瞬の所作でよかったりします。それだけで、僕の頭の中でミチコがぐわわわわわっと急降下する。
 距離感も奇妙です。この舞台ではほとんどの時間、古賀さんは歩き回りながら発話することはなく棒立ちで、西井さんがのそのそと俯いてうごめきます。ずっと棒立ちなのもずっとうごめくのも普通じゃありません。だから、これは普通の世界での普通の位置関係を表象しているのではないことになります。
 たとえば、ミチコとコンビニ店員が会話をする場面。二人は触れ合うほど近くにいるのに、遠くにいる人に話しかけるような声量で喋り合います。
 そもそもミチコの中の「ぼく」は身体を持たないはずだから、位置関係もなにもあったものではないのです。だから二人の部屋における位置や互いの近さ遠さ、声の大きさ小ささは、「高度」とはまた別の特殊な遠近感を示していることになります。
 しかも、俳優の皆さんの身体はそのように現実を超越しながら、現実的な身振り――たとえば扉を開ける動き、人を殴る動き――を示しもするのです。
 だから、それぞれの俳優の身体には、様々な登場人物が憑依するという意味でも、またその「高度」や遠近感、現実的な身振りの意味でも、さまざまな情報が多層的に折り重ねられていることになります。
 『ささやかなさ』はそのような「配置のドラマ」でした。だからこそ、その配置を観客がどの位置からまなざすのかによって、作品の様相は大きく変化を見せるはずです。位置だけではありません。俳優の身体が示してくる情報をどのように受け取るのか? それはあまりに多義的なので、けして唯一の答えなどはあり得ません。
 俳優の身体のどの情報を受け取るのか、という以外にも、彼らの身体表現には多義性が孕まれていました。「あなた」が棒立ちになりながらミチコが腰を曲げてのそのそと観客の側へと近づいてゆく場面。物理的には近づいてくるのはミチコの方ですが、ミチコの位置は固定されているのだとすれば、「あなた」のほうが足を動かさずに「奥」の方へつーっと平行移動しているようにも思えます。観客が自分の位置を中心に空間を捉えるのか、ミチコを中心に空間を捉えるのか、などなど。様々な仕方で、「あなた」とミチコと世界の距離感はきわめて複雑な複数のニュアンスを抱え込んでいたわけです。

スペースノットブランク

 こうして、作品世界の像にその身体と想像力で大きな変化を及ぼす観客の存在。それこそが、『ささやかなさ』の自閉性をひらいていく最大の契機と言えるのではないでしょうか。『ささやかなさ』を演出したのはスペースノットブランク。空白でない空間。彼らの表現はいつも動きが少なく、抑制されている印象があります。たっぷりとした余白を感じさせるのです。けれど、それでも真っ白な空間が「空白」に堕することなく、ゆたかな中身を伴っているとしたら、それは彼らの表現がさ、ささやかなさ、人と人とのつながりを生む結び目にさ、なってるからなんじゃないですかね。
 外部の松原俊太郎さんに戯曲をお願いしたことも、そのように考えてゆくとなんだか意味深く思われてきます。
 スペースノットブランクのお二人はダンスの経験を基礎に活動していらっしゃいます。ダンスは特定のメッセージを伝達するものと言うよりは、立ち現れる豊潤で汲みつくせない身体の魅力をさまざまに放射する芸術でしょう。
 けれどもスペースノットブランクはいわゆるダンスを素直に踊って、空間に意味を魅力を振りまいたりはしません。それは日々の生活や創作を通じて直面せざるを得ない空虚な空白から目を逸らさないためでしょう。ブランクから出発する彼らは、『ささやかなさ』においてもそれを埋めるための決定的な答えは提示していません。けれどそうしてたれこめる空虚さに、彼らはささやかな風穴を開けます。あなたもこの風穴から抜け出して、「あなた」といっしょにこのゆたかなテクストの宇宙の中で泳いでみてはどうですか。そう語りかけるかのように。
 けれどその風穴はやはり、むなしいブランクから僕らをまだ解き放ってはくれない。そのことにいつまでも繊細にささやかに向き合い決闘をつづけるスペースノットブランクの活動は、うつろな自閉的現代的ブランクとゆたかに開けたスペースとを結ぶノットとしてあるのかもしれません。

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