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ワニの日と、盛夏火『ウィッチ・キャスティング』

団地演劇

 団地で演劇を行う盛夏火(セイカビ)という団体のことはかねてから耳にしていました。新作の『ウィッチ・キャスティング』の情報を初日前夜にSNSで拾って、劇場外で演劇的行為を行う同胞として勉強させてもらおうと思い、衝動的に観ることを決めてメールで予約の旨を伝え、千葉の自宅からはるばる祖師ヶ谷大蔵へと向かいました。20日の夜の回。
 劇場を使わないメリットは複数あります。まず、劇場をおさえるコストがかからない。劇場の使用時期に合わせて厳格にスケジュールを詰める必要もない。コストやスケジュールから自由な分、比較的自由にのびのびと創作に取り組むことができるし、観客への料金設定も安価に抑えることが出来ます。また無理に客数を稼ぐ必要もないので、客席の作り方から工夫することが出来て、見せ方は自在です。
 加えて稽古場と上演環境が一致するので、俳優は早くから舞台に身体を慣れさせることが出来ますし、本番期間の突然の環境の変化に対応する必要がありません。
 そして、現在は劇場外での演劇は一般的ではないため、自然に場所のコンテクストを上演に組み込むことが出来ます。
 これらの利点は自宅を舞台に据えた場合一層際立ちます。ゲッコーパレードや首くくり栲象さんのパフォーマンス(https://note.com/review_harukani/n/n74bc0a7b6208)などはその好例でしょう。
 盛夏火の今回の公演もまた、チケットは1666円と安く、席数も15席程度と限られ、親密な空間が用意されていました。

二重化された街

 祖師ヶ谷大蔵の駅に降りるのは初めてでした。北口から商店街を歩くと、狭い道路に対してやけに往来が多くて、反対から歩いてくる人と何度もぶつかりそうになりながら周囲に注意して足を進める必要がありました。それは別の国に来たかのような少しエキゾチックな散歩になりました。とはいえこの異国情緒は意図的に用意されていたものです。
 舞台が劇場なら、そこが外界から形式的に分断されていることを前提できます。けれども団地演劇の場合、観客は行き先が劇場とは違う、日常的な環境であることを既に理解しています。だから自然とこの商店街を、これから観る演劇の始まる団地がある一つの街の風景として、その団地に住む人間の生活圏内として、すなわち作品化された景色として受容することになるのです。
 そして今回の公演の場合、観客は予約後、舞台への道案内が書かれたnoteを確認しながらその道をたどることになってもいます。それはなんだか宝探しのようでもありました。
 現実とフィクションとに二重化された街を歩きます。
 けれども目的地に着くと、急に現実の側に引き戻されることになりました。団地の指定された入り口にはいかにもスタッフらしい1人の男性が立っていて、「上演に苦情が入っていまご案内することが出来ないので、向かいの公園のベンチでもうしばらくお待ちいただけますか」といった旨のことを申し訳なさそうに伝えてきたのです。この状況もそれはそれとして楽しむこととして、言われたベンチに腰掛けて、Twitterを開き、ワニのことを考え始めました。

虚構の時代が果てても死ぬワニ

 『100日後に死ぬワニ』は2019年の12月12日から漫画家のきくちゆうき氏により、Twitter上で100日間毎日更新されたコンテンツです。擬人化されたワニとそのささやかな人間関係が4コマ漫画のフォーマットで淡々と切り取られてゆくのですけれど、コマの枠外では常に「死まであと〇〇日」とワニの余命が示されています。死の理由はその日までわかりません。強引で唐突な終わりを意識するからこそ、日常のかけがえのなさが愛おしく思える、そんな作品でした。通常の4コマ漫画とは違いそれぞれの一日にタイトルがつかないことにも、その日々の名状しがたい固有性への配慮が見られました。
 とはいえ『ワニ』の死を純粋な日常性のうちに純粋に還元することはできません。ワニの死は2020年の3月20日に設定されていました。それは地下鉄サリン事件からちょうど25年が経過する日付でもあります。その事件は大澤真幸さんによって「虚構の時代の果て」と呼ばれたところの節目ではあったけれども、しかしその「果て」の後で、生活はますます虚構と二重化されている印象を受けます。そして、2020という数字には、多くの人びとが不吉な予感を漠然と抱えているはずです。政治的経済的な破綻の予感。その予感はコロナの手で、形を変えながらも一層強固に凝結しつつあります。
 大澤さんは、オウムという奇妙な存在を、世界最終戦争(ハルマゲドン)という荒唐無稽な終焉のモチーフを虚構として集団の体制に組み込むことで生じた症例だとしていますけれども、奇しくもこの2020年3月20日もまた、地球滅亡がマヤ歴に暗示された日付として、同じくひどくオカルトチックに彩られてもいました。
 終わりを宣告されることはそれまでの時間を劇的にします。けれども現実には、終わりの見えているこの時間を、あくまで私たちは純粋な「日常」として生きてしまってもいる。現実的な終わりの予感に嘘をついて、大小の虚構を算出しながら目の前の「日常」というフィクションを守り続けている。地球の終焉とワニの死をひとしくぼんやりと予感し時間を暮らしてゆくことが2020年のリアルです。
 東京はるかにのSlackでメンバーが投稿した『ワニ』への評はこの作品に対する極めて適切な評だと感じました。

別に政治的な話ではなく鰐の話なのですが、矢作俊彦の「高い城の男」を読んで、この100日はなるほど昭和天皇の病床の100日の平成におけるひどくキッチュな変奏であり、数日内に訪れるのはおそらく平成にとっての崩御なのだろうと変に納得してしまいました。あるいはこの伸び切った現在にいかに別れを告げるべきかという問題でもあるかもしれません、映画のような時間である現在に。

 今日はワニが死ぬ日でした。芝居の終わるころにはワニはいないでしょう。

セミ・ヴァーチャルな主体

 やがて、ごく静かに階段や廊下を歩くよう注意を受けた後で、舞台となる団地の一室へと案内されました。主宰の金内健樹氏の自宅であるようです。人を招き舞台を起こすだけあって、ずいぶん清潔にしてあります。キッチンなどにはさすがに生活感が残っていたのかもしれないけれども、注意して見ることはしませんでした。
 私はいまだ家族とともに二階建ての一軒家で暮らしているので、団地での生活への想像を否応なく掻き立てられることになりました。
 物語はざっくばらんに言えば、摩訶不思議な事が次々に起こる団地で魔女が事件を解決するという筋になっています。正直な事を言えば私は作品のシナリオに没入できなかったので、あまりこれについて詳述する権利を持っていません。私の注意はむしろ、かなり冷えた目で舞台のリアリティの手触りを確かめ続けることに向いていました。
 とはいえそれは単に退屈したためというよりは、没入を阻害するような構造が(おそらく)意識的に多数張り巡らされていたからです。まず、展開のスケールが極端に大きいのですけれど、その飛躍を支えるための骨組みがろくに用意されていません。だから観客はそれがチープに壮大な虚妄であることを理解したうえで、それにのめりこむというよりは付き合うような状態になる。
 またその台詞も、往年の匿名掲示板でのSSや夢小説を想起させるような、人物同士の関係性を意識せずただ言いたいことを言いたい文脈で言ったような自閉的なもので、しかもその自閉的なテクストを演劇的な発話として成立させる道も放棄して、ところどころ噛みながらの早口によってこれを吐き出していたのです。
 自閉的な早口、というのは私もしばしば行ってしまいますけれども、演技はそのような現実性を志向していたのではおそらくありませんでした。
 ゼロ年代の萌えアニメ(という割には参照範囲が思いのほか広かったけれども)と欧米映画から影響を受けたという本作は、展開がそれらのブリコラージュ的なパロディであるばかりでなく、台詞自体もそれらユースカルチャーを参照したユーモアが多かったです。現代の文化の特徴がこのように文脈から自由な雑食性にあるとすれば、今回の盛夏火の演技は現実との接地点を持たずヴァーチャルに情報を行き来し送受信する軽やかな主体の姿をそのまま浮き彫りにするかのようでした。
 登場人物の名前は「キキ樹」や「新屋魔美」などアニメのキャラクター風のものばかりだけれど、これはその役を演ずる俳優の名前(それぞれ金内建樹、新山志保)からもとられたもので、つまり舞台上の人格は現実の俳優自身とヴァーチャルな情報(もちろん魔女宅やエスパー魔美)をパロディックに融合したものでしかないことが、最初から宣言されていました。
  けれどもその発話は、劇場であればいよいよ宙に浮いてしまったのだろうけれども、舞台が実世界たる団地ゆえに独特のリアリティの手触りを獲得することになります。現実の会話に近いのでもなければ、一般的な演劇としてのリアリティもない、ただただ外に出したい情報がよどみを含みながら奔流するその発話は、どのようなリアリティも持たないがゆえに一層現代の団地の一室の現実を映し出しているように見えたのです。

ベッドサイド・ダウン

 途中、団地の不思議な力で、新屋魔美はキキ樹の自宅にワープしてしまいます。魔美には豆を投げつけることで、彼女の家の衣服や日用品もキキ樹宅に転送することが出来ました。
 けれども団地の一人暮らしの部屋には、ベッドは一つしかありません。キキ樹は魔美に同じベッドで寝ることを恐る恐る提案し、魔美はこれを快諾します。
 女の子が男の自宅に突然着の身着のままやってきて一夜を共にするというのは、ずいぶん男性側に都合の良い感じで、たしかに萌えアニメ的に描かれた展開と言えます。けれども『ウィッチ・キャスティング』の魔美は男性側に甘く優しい表情を取ることはしません。どこか素っ気ないぶっきらぼうな姿を取り続けるのです。
 その意味で萌えアニメがストレートに舞台上で演じられるのではなくて、あくまで団地の生活感がいつまでも薫るのですけれども、それなら現実的な女性の身振りがそこに現れていたのかといえば、必ずしもそうとは言えません。
 私の席はベッド脇だったので、超至近距離、超目の前に新屋魔美の身体がありました。それはとりもなおさず新谷さんの身体でもある。電灯を消して明かりを落とすと、ここは劇場ではないので実際の闇がこの部屋を満たすのですけれど、芝居の嘘が俳優の姿を現前させないだけに、目の前にいるはずのその人の存在の位相は一層曖昧になりました。
 目の前に1人の女性が寝そべっている現実はどこまでも現実なのだけれど、考えてみれば、お金を払って悠長に一方的に視線を向けることのできる私の存在がおかしい。見知らぬ人間の自宅にやって来て、ふんぞり返って「観客」であり続けるというのはどう考えても異常事態です。しかもその異常性をフィクション化して支える「劇場」という装置もここにはないのです。
 ベッドに男女が二人でいながら、それ以上の際どい展開はどこまでも自然に避けられてゆくし、そのようなエロティックな雰囲気もけして漂うことはありませんでした。結局のところ、二人の関係は作り物で、童貞的に一貫した世界観の中で書かれた言葉を話し、透明な存在たる私たちに一方的に眼差される客体としてもある。そのあまりに不自然な空間の、不自然さを、現実の中に不自然なままに露出させるところに盛夏火の戦略があったのでしょう。そのベッドシーンは萌えアニメ的ご都合主義にも、団地的ノスタルジーにも、どのようなステレオタイプにも回収されえない奇妙なリアリティを勝ち得ていました。

二重化されゆく世界

 現実とヴァーチャルを二重化する仕掛けは、ほかにも相当数仕組まれていました。たとえば登場人物の一人が作る団地のジオラマが舞台に置かれることは、現実と作り物とを入れ子的に重層させる発想を明示していたと言えます。
 それに、劇場でない空間に「観客」が招かれることの嘘にも目をそらしてはいませんでした。先に述べたチケット代は1666円で、観客は千円札、500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、1円玉をそれぞれ一枚ずつ持ち寄る必要がありました(他の払い方は禁じられていました)。この儀式的な操作によって、観客は自然とこの魔女の集会に訪れた一人として扱われることになります。
 作品序盤、占いを行うための集会に集まった人物として、登場人物たちも観客も等しく作品世界の中に置かれています。両者の立ち位置を区別するのは、観客は団地の外からやってきた人物で、その他の人物は団地に住んでいる、という設定です。
 けれども、登場人物であり、団地に住んでいるようでありながらよそ者を自称するマージナルな存在である「魔女」がやってくることによって、奇怪な出来事が起こり始めると、俳優たちは観客の存在を無視し始めます。観客は透明な存在になってしまうのです。
 最後、この「魔女」が自分の身を犠牲にして団地の混乱を収めると、改めて自分たちを取り囲んでいた観客の存在に気づき、団地の外へと案内することで物語は幕を閉じます。
 ほんとうに幕を閉じたと言ってよいのかはわかりません。
 脚本は開場後の前説の段階から仕組んであり、芝居の前後でも俳優の方々は役名で互いを呼び合い、物語の世界観を崩すことはありませんでした。芝居の入りも終わりも、なんだかぬるっとしていて、しっかりした区切りなく作品世界に入っていく印象がありました。作品世界を現実へと延長させる意図がそこにはあったはずなのです。
 団地の様子をツイキャスで実況して、その画面を観客に見せる演出がありました。その効果は、舞台となる部屋と団地の景色とを繋げるに留まりません。観劇前後に盛夏火のツイッターアカウントでそのツイキャスが行われているのを眺める人々の生活にも、作品世界が届いていくからです。
 宇宙的なスケールに飛躍する物語の中で、しかし語られるのはどこまでもこの団地の危機です。そして、「外は危ない」というファンタジックな台詞に、公演の中止を要請する近隣住民の存在やコロナウイルスによる自粛の風潮といった現実が(偶然にせよ)折り重ねられていきます。
 創作に携わる人間にとっては、フィクションに身をゆだねることが生活になりますので、生活とフィクションとの区別がほとんど意味を為さなくなります。祖師ヶ谷大蔵の団地の片隅でアニメや映画、ネットカルチャーに耽溺しながら自らも日夜その場所に物語を立ち上げようとする人間の多重化された現実を、観客や俳優を魔女にキャスティングすることで世界中に巻き散らす試みがこの『ウィッチ・キャスティング』だったのではないでしょうか。

セミ・ヴァーチャルの死

 舞台になった祖師ヶ谷大蔵の団地は、数年後に取り壊されることが決まっているのだそうです。
 ステージナタリーに掲載されたステートメントは、次のようなもので、ここには初めから『100日後に死ぬワニ』やマヤ歴のコンテクストが織り込まれていました。

自宅である団地にて魔女についての演劇を行います。わたしたちの住むこの世田谷という土地と、水星の逆行の後のマヤ暦の終わり、ワニが死ぬ春分の日……季節の終わりと始まりが重なるこの一瞬の3日間でしか成立し得ない、演劇で、物語で、アトラクションで、なによりもユース・カルチャーです。この週末、世界は魔女の終わりと誕生を迎え、それを目撃したあなたもまた、魔女になる時なのです

 取り壊しの決まった団地に住み続け演劇を重ねる生活。終わりを宣告されることはそれまでの時間を劇的に、フィクショナルにします。けれども生活にはそのようなドラマを超える時間の重みがあるものです。終わりを自覚しながらも生活は続いていくわけで、そうなると私たちはそこにいくつかの物語を重ねて時間を過ごしていくほかありません。『ウィッチ・キャスティング』におけるスペクタクルの荒唐無稽さは、それにのめりこむことのできなかった私には、日常を冒険として生きることの重さや軽さが示されているかのようでした。
 物語が終わり、役者の方に連れられて少人数ずつ団地の外へと送られてゆきます。それは、近隣の方に迷惑をかけないよう、声をひそめさせ、また大勢が一気にがやがや足音を立てたりしないようにするという現実的な配慮のためですから、なるべく静かにこちらも階段を降りるのですけれど、役者の方は演技を崩さないので、こちらの静かな足取りも、妖気に捕らわれた団地の危険から身を潜める身振りとしての意味を勝手に帯びてしまうのでした。
 その巨大な直方体は夜の暗さにかたどられて、重く重く現実にそびえていました。いずれなくなる場所なのだと思うと、それも虚構的な幻影に見えもするのですけれど。けれどここに住みやがてここを去る多くの生活の現実に想像が及ぶと、その幻影も晴れて結局その建造物の重みだけが残ります。それを後にして、人通りの多い明るい商店街へと足を進めます。その距離はわずかでした。
 スマホを開き現実に帰るとワニは死んでいました。

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