ことばという架け橋。

*大人になって授業を受けていると色々な発見がある。それは授業を受ける側としてもそうだし、受けている身で「自分ならどんなふうに説明するだろう?」と考えたり、どうすれば分かりやすいかを考えながら受けていると、アウトプットを意識したインプットになるので、エネルギーは使うが、理解が深まるような気がしている。ああ、今から学生時代に戻れたら、もう少し成績が良かったかもなぁ。

それについて理解している人が説明しやすい文章と、それについて理解していない人に理解してもらうための文章はちがう。いわば前者は、先生が「進めやすい授業」であって、分かりやすい授業ではない可能性がある。このことをきちんと分かっていないと、バイアスが働いたりして、自分が説明しやすい説明や文章になってしまうことがある。

・言葉は架け橋でもある。こちらにある気持ちや考えを、あちらに伝える(送り出す)ための道となる。つまりそれは、送り出す相手や土地がいるということだ。贈与であり、キャッチボールであり、ギフトであり、バトンなのだ。それらはすべて、受け取る相手がいないと成立しない。こちらから繋いだ架け橋は、橋を渡す土地がなければ、えんえんと宙を彷徨い続けることになってしまう。

言葉の架け橋が降り立つ場所はどこなのか。それはどんな土地で、景色で、高さで、どんなふうに橋を下ろせば、スムーズに行き交う橋となるのか。その橋を伝ってどんなものをやりとりするのか、したいのか。こちらから送り出すもの、あちらから届くもの。相手のことを考えることは、たとえてみればただこれだけのことであり、これだけのことをやり続けるのは難しいのだとも思う。

ただやっぱり、コミュニケーションにおいて、言葉というものが橋となり、箱となり、何かを運んだりしていくことを忘れずにいたい。何かを届けるとき、どんなふうに受け取ってもらえるだろう、どんなふうに受け取って欲しいだろうと考えるのは、ひとつ大事なことだね。


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