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始めるのに遅すぎることなんてない

一昨日9月9日は、ある偉人の誕生日でした。
誰が誕生したのかは、画像でお分かりですよね^^
今から131年前の1890年9月9日に、ケンタッキーフライドチキン=KFC創業者である、カーネル・サンダースが誕生しました。

おはようございます。
店舗集客マーケターの大久保亮です。

この記事を先週書いて、下書きに入れてるのを忘れてました!
本当なら9月9日に公開するはずだったんですけどね^^;

今回、カーネル・サンダースを取り上げた理由は・・・
彼がケンタッキーフライドチキンを始めたのが、なんと65歳だったからです。

カーネルおじさんとしてお馴染みの、カーネル・サンダースは

「何かを始めるのに、遅すぎることなんてない」

ということを、彼自身の足跡で証明してくれました。
これから高齢者が増える日本において、大きな励みと勇気をもらえるのではないでしょうか

しかも、1960年代の65歳ですから、今の65歳とは訳が違います。
一般的に65歳といえば、仕事を引退して、これから年金をもらって余生を過ごす。そんな年齢のはずですが、彼は違いました・・・

その結果、今や全世界約2万店のチェーンにまで拡大した訳ですから、人生なにが起こるか分かりません
もちろん、彼一人の偉業という訳ではありませんが、彼の存在と行動力、働く熱意がなければ、今のケンタッキーフライドチキンは無かったのです。

実は、カーネル・サンダースの歴史を見ると、そこから数多くの学びと刺激を得ることができますので、紹介したいと思います。

学歴は小学校の終了証だけ


本名:ハーランド・サンダースは、早くに父親を亡くし、工場で働く母親を助けるために6歳で料理をはじめ、10歳のときには家計を助けるために農場で働き始めました。

その後も14歳で学校をやめ、陸軍に入隊したり鉄道関係の仕事をしたり、40種類ほどの職種を転々としたそうです。

彼は決して恵まれた生い立ちではなく、学歴もない、経済的にも裕福とは言えない状況だったのです・・・

まさか、カーネルおじさんにこんな背景があったとは・・・彼の歴史を知ってしまうと、何かを躊躇して行動しない理由がすべて“単なる言い訳”と化してしまいますね・・・

度重なる悲劇と不屈の精神


あのふくよかな体型と優しさ溢れるスマイルからは想像もつきませんが、実はカーネルおじさんは、強靭な不屈の精神を持ち合わせていたのです。

30歳後半で「自分の将来は自分で決めよう」と、ガソリンスタンドを設立するも、大恐慌と干ばつで、農民に貸していただガソリン代を回収できず、ガソリンスタンドを売却することに・・・

数年後、再びガソリンスタンドを開業し、自分の名前を付けた小さなレストラン「サンダース・カフェ」を併設しました。

スタンドはサービスが良く、レストランで出していたフライドチキンも評判が良かったことから、多くのファンを生み出します。

創業から5年経った1935年には市民への貢献が評価されて、ケンタッキー州知事から名誉称号である「カーネル」を授与されるまでになりました。

しかし、再び悲劇が訪れる・・・


国道沿いにあった彼のガソリンスタンドは、近くにハイウェイが建設されたことで客足が遠のき、レストランも火事によって消失してしまいました。

残ったのは1939年に完成したフライドチキンのオリジナルのレシピだけ。
このとき彼は、既に65歳になっていました・・・

これらの悲劇に見舞われながらも、彼の働く意欲は消えませんでした。

彼は手元に残ったフライドチキンのレシピを提供する代わりに、チキン一羽の販売につき5セントを受け取るフランチャイズビジネスを開始。

全米を車で巡り、食事はフライドチキンの試作品、寝るのは車の中という日々だったとか・・・

そんな状況ながらも、フライドチキンのノウハウを提供しつづけ、73歳のときには600店を超えるほどのチェーン店になっていました。

65歳で始めて、73歳で600店舗・・・
わずか8年で600店舗に。インターネットなんて無い時代に、一人で車で営業していたことを考えると、とんでもなく凄いことではないでしょうか。

そう、彼は諦めない男だったのです。

何が彼をそこまで行動させたのか?


度重なる悲劇にも屈することなく、不屈の精神でフライドチキンのオリジナルレシピを販売し続けたわけですが、いったい何が彼をそこまで行動させたのか、気になりませんか?

今では世界中で愛されているフライドチキンですが、そのサービス精神と妥協なき姿の原点は、1939年に完成したオリジナルレシピでもなければ、1930年に始めたサンダース・カフェでもないのかもしれません・・・

実は、こんな逸話が残されてます。

7歳のときに、弟と妹と母のために焼いたパンが大喜びされ、彼はその嬉しさを生涯語り続けた。

彼の原点は「おいしいもので人を幸せにしたい」という、とてもシンプルだけど愛情溢れる思いだったのです。
その原点にある思いが、度重なる悲劇にあっても彼を行動させ続けたのです。

まとめ


サラッと彼の生涯を振り返ってみましたが、なんとも言えない自分の中に眠る不完全燃焼感がウズウズするのは僕だけでしょうか?

度重なる悲劇に屈することなく、65歳から再起して8年で600店舗のお店を開拓って、平均すると年間75件、月6.25件以上のペースで開拓し続けたことになります。
尋常ではない行動力ですよね・・・

冒頭にも書きましたが、これから高齢化社会を迎える僕たち日本人にとって、これほど勇気をくれるエピソードはないのでないでしょうか?

何かを始めるのに、年齢も、お金も、学歴も関係ないということですね。


この記事を読んでくださったあなたが、何か良い刺激を受け取ってもらえたら幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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PS
カーネル・サンダースが本名だと思っていましたが、違ったんですね^^

PPS
「カーネ・サンダースの呪い」
Googleでカーネル・サンダースのことを調べていたときに出てきたワードで気になったので見てみました。
ウソか本当かはともかく・・・
1985年(昭和60年)10月16日に、阪神タイガースがセリーグ優勝しました。
阪神といえば熱狂的なファンが多いことでも有名ですね。
優勝に狂喜した阪神タイガースのファンが、カーネル・サンダースの像を道頓堀に投げ入れた因果で、翌年以降、阪神タイガースの成績が低迷した・・・
という都市伝説でした^^


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