笑うバロック展(300) アイドルを探せ 「再発見と書きかえ」のヒレ(1)

始まりは、オオハシ先生から下記の手紙。先生からギエルミのグラウン協奏曲を教えてもらい、こちらからパールの情報を交換したあとでした。このときまだバルテュスなんて知らず、必死に調べたものです。先生はこの後で、ずいぶんと書きなおされたものをガンバ協会の会報に寄稿したかと記憶しています。その最初のドラフトでした。偶然が重なった興奮の方が先に発って冷静でなく筆を進めている、キーを叩いている?のが目に浮かぶようです。届いた手紙を改めて読みつつ見つつタイプすると、何か実用譜を手書きでおこす、ということの大切さが少しわかったような気がします。
「築いたあの伝統を継承してゆくに相応しい演奏家でありたいと」。耳が痛い言葉、大切にします。

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日曜美術館での話題。ロートレックは晩年「人間は醜く。人生は美しい」といったそうですね。現実的には醜く、抒情的には美しい、ということでしょうか?
先日、新宿まで「使い」にでて、ついでに『Balthus』の新しい画集を買いました。彼の息子が編集している本です(やはりクロソフスキーStanislas Krossovsky de Rolaという名でした。バルチュスは天才哲学者クロソフスキーと兄弟、すなわちリルケが父親、この事実には感動します)。
ところで、以下のようなものを書きました。


エヴァ・ハイニッツをふりかえるヒレ・パール

ここ数年、新しいCDを定期的にリリースする若い名手たちの活躍には、目を見張るものがあります。中でもヒレ・パールHille Pealさんの仕事は、ぼくらが求めているものを、とても魅力的なかたちで聴かせてくれるので、胸をときめかせて新譜の到来を待ちます。彼女には、歴史をふりかえる確かな眼差しがあり、それがプログラムの構成からも、演奏からも、書く解説からも、ポートレートからもにじみ出ています。

パールさんがCDのソリストとしてデビューしたのは、1997年の7月ころ、サント=コロンブ:コンセール集でした。この日本盤がリリースされた時、それと関連して、ぼくにとってたいせつな記憶が重なる偶然を体験しました。それはCDが発売される2日前、VdGSA Newsletterが送られてきて、その中にパールさんがアメリカ・ガンバ協会のビショップさんから薦められて書いたというエッセイを読んだことに始まります。『Berlin Philharmonic goes to Bach,or,What I have in common with Eva Heinitz』敷衍して言えば『ベルリンフィルがバッハを演奏、それと関連して私がハイニッツさんと分かちあうもの』と題したこのエッセイの内容は、おおまかに次ぎのようなものです。

東西ドイツ統合がドイツ国民にとって小説の出来事のようであった頃、東ドイツで、リュートのリー・サンタナと演奏する機会があった。そこに偶然居合わせ、それを聴いたシアトル(アメリカ)の画家:デービィド・パウエルさんが、演奏会の後で、「貴女の弾くのを聴いていると、エヴァ・ハイニッツを思い出す」と言った。ハイニッツさんが、1920年代、30年代初期にドイツでもっとも活動的なガンバ奏者だったこと、ホロコーストを避けてアメリカに渡ったことは知っていたのです。が、これは何とゆう出来事でしょう。この東西統合で世界が興奮している時期に、ナチに追われ、国を去らなければならなかった何千の芸術家や、この国で破滅させられたたくさんの人々の上に想いを馳せるとは。 そのとき私の胸を巡ったものは、"別れ別れになった一つの民族が統合され、もう離れることはないのだ"ということは、ドイツ民族が背負ってきた深い罪は、これまでの苦しみによって償ったのだろうか?という願望でした。……ああいった悲劇がなかったら、私は今より5倍もたくさん親戚をもっていたかもしれないし、ドイツは今よりもっと美しかったかもしれないし、私はハイニッツさんや、彼女の弟子にガンバを習っていたかもしれないのです。

今年、「自分はハイニッツさんの足跡をたどっているのではないか?」と思うような出来事があった。それは、ベルリン・フィルが『マタイ受難曲』を演奏し、私がガンバで招かれた時のことです。西ドイツの人にとって"ベルリンに行く"ということは、未だに危機感を伴うもので、ヴィザで検問を受けたり、無事にたどり着けても、あの大きなフィルハモニック・ホールでガンバは聞こえるだろうか?とか、常任指揮者のアバドが最初のリハーサルが終わるやいなや「もう家に帰ってもいいよ」というのではないか?とか心配がつきなかった。でも実際には、あの素晴らしいモダンの音楽家たちはすでにバロックの演奏習慣に詳しく、それはわざわざ木管のフルートを調達するほどの熱のこもったもので、結果的に大きな成功をおさめた。
プレス・インタビューでソリストたちが招かれて、そこで知ったのだが、ベルリン・フィルは25年もこの曲を取り上げていない。最後に演奏したのは、カラヤンとの1972年、その時は古楽器や演奏習慣など念頭になく、コントラバスが8台も並んだそうだ。もちろんガンバは使われなかった。……。

ベルリンに滞在する間に、親切な楽団事務局の方の助けで、1932年の『マタイ』と『ヨハネ』のプログラムを閲覧することが出来た。前者はクレンペラー、後者はフルトヴェングラーで、両方ともガンバはハイニッツさんだった。そこではバス・リュートなどの古楽器が使われるなど、‘72年の段階よりはるかに今回の演奏に近いことを知り感動した。……。
かつてのように、民族や宗教が違うからといって、国を追われるようなことが再び起こらないように祈り、ハイニッツさんが1932年に築いたあの伝統を継承してゆくに相応しい演奏家でありたいと願った。

以上が概要ですが、これを読んでとても感慨深く心に決するものがあったので、ただちにパールさんあてに手紙を書きました。それには、彼女のソロCDの日本盤(ぼくが訳と補足説明を書いた)がリリースされたこと、その日本盤のスリーヴ・ノートを添え、さらにハイニッツ先生にマタイの“Komm susses Kreuz”のレッスンを受けたときに戴いた1932年の『マタイ』で使った彼女の手書きの楽譜(コピー)を添えました。ぼくはアメリカ留学の第2年目(1965)、Unversity of Washington で、エヴァ・ハイニッツ先生に師事したのです。
TO
(2 10)
CDは日本盤は『哀しみのトンボー』
原題は“Seven strings and more / Sainte Colombe / Retrouve & Change”
同じ時期にリリースされた“Musik fur Sans-Souci”(KammerTon op3/97)で、Graun Konzert を弾いている。これは画期的な演奏の一つです。

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