見出し画像

吉田先生は断捨離できない

無題55599874

フォン・オッターに触れた「音楽展望」。スクラップしたたくさんの記事をこの自粛で断捨離しました。捨てるに捨てられず、何とか残しておきたい----そんな記事もあります。ただただ頭を垂れて傾聴するような響きのエッセイ。マーカの部分だけじゃなんだかわからないでしょ。朝日新聞を読むのが楽しみだった時代の----。

「何々は誰々の演奏に限る」と決めてかかるのは、楽曲を美術館の壁に釘付けにするようなもので、音楽の本性に矛盾する。

CDは最適の音の量を指定する術がない。

絶叫やプラカードの行進とは正反対の怒りと批判、絶望的悲しみの独唱会なのである。

フォン・オッターがやると、リアルでしかも全く新しい生きた芸術が、瞬間ごとに生まれてくる。
これこそが芸術であり、芸である。

手短に書くが、音楽はその都度刻々に生まれるものだ。同じ曲といっても演奏のたびにどこかで新しい面が出てくる。だから「何々は誰々の演奏に限る」と決めてかかるのは、楽曲を美術館の壁に釘付けにするようなもので、音楽の本性に矛盾する。ただ、その新しさが納得のゆくものかどうかが問題になる。正月私がトリスタンの頬にひげそりの涸をつける新浪出に嫌悪感を表したのはその一例だ。
----
二日、水戸芸術館で聴いたアンネ・ソフィー・フォン・オッターの独唱会(ピアノはベンクト・フォシュベリ) はこのことの素晴らしい実例だった。フォン・オッターが凄くうまいメゾ・ソプラノであることは隠れもない事実だが、この人がそれ以上に、確固として言うべきものを持ち、それを緻密に計画した上で正確に歌にのせる能力を豊かに身につけた人だということは、少なくとも私は、彼女のリサイタルを聰くまで、こんなにはっきりとは知らなかった。独唱会は第一部が彼女の生まれ育った北欧の歌曲。第二部はシューベルト、マーラー、ヴァイルが各四曲という編成。一見、とりとめないようでいて、実は一貫した流れがある。それが何かおいおい書くとして、さし当たりの彼女の歌は、とかく芸術歌曲にありがちな抽象的美学性の強いものではなくて、現実から生まれたリアルな感動の影が色濃く射したものだと言っておこう。
それを彼女はむき出しの情緒や激情の表現でなく、非感傷的で節度のあるものとして聴かせる。それも、冷たい感触の北欧的なものとしてでなく、聴く者の心の奥までしみこんでくる、深みのあるものとして提出するのでる。
----
上述の四つの集団の歌たちはそれぞれ出発・間奏・クレッシェンド・クライマックスまたは結びという具合に選ばれている上に、その全体が集まって、アレグロ・アンダンテ・スケルツォ・ロンド、またはアレグロ・スケルツォ・アンダンテ・ロンドとでもいった、まるでハイドンかベートーヴェンの多楽章形式の交響曲や四重奏曲のように組み立てられている。シューベルトでは「春に」「鱒」「美も愛もここにいたことを」「シルヴィアに」。気品の高い古典性が特徴で、「鱒」など粘っこい感傷性の物語の気配はまるでない。が、終わりの「シルヴィアに」のハ長調の爽やかな喜びは、そこはかとないユーモアを交えて、北欧のあの淡い青の空を思わせずにはおかない。喜びであっても、それは笑いより微笑みを誘うそれだ。その微笑みが第三曲の静かさと見事に対比をなす。
気品と微笑のシューベルトに続くマーラーでは「この歌を作ったのは誰」「高い知性への賛歌」「現世の暮らし」と順々に苦みを増してきて、「美しいトランペットの鳴り響くところ」に行き着く。夜半、娘の部屋の戸を叩く育年の愛の誓い。だが、夜が明けて彼が行くのは戦場。美しいトランペットが鳴る緑の大地はほかでもない彼の骨を埋める場所なのだ。この歌は以前彼女がCDに入れていて、あれも名唱だったが、CDは最適の音の量を指定する術がない。それをライヴで聴く時、音の小ささに比例して音楽は深みを増し、沈痛なピアニシモの果てに長い沈黙が来る。
その凍りつくような非情のピアニシモを聴くうち、彼女の姿勢の基本が明かになる。これは絶叫やプラカードの行進とは正反対の怒りと批判、絶望的悲しみの独唱会なのである。
続くヴァイルの「ナナの歌」「海賊ジェニー」などのプレヒト=ヴァイルの曲は「三文オペラ」の初演以来ミルバ、レンパーと伝わる伝統が生まれ、それとわかる様式が受け継がれてきたわけだが、フォン・オッターのは、その伝統を継ぎつつ、異化されている。具体的に言えば、ミルバたちのは強いアクセントでデクラメーションに近く演じたのに対し、フォン・オッターは小さな声で、だが正真正銘の歌として歌うのである。
「三文オペラ」の批判性は今も効力を失わないようでいて、実は今の時代そのものがひどく変わってしまった。不正卑俗に対する批判と嫌悪はちっとも摩滅していないけれど、かつての両ひじを張って肩に力を入れた偽善ぶり、表現主義的悲愴の気取りは今はむしろ滑稽にしか見えない。彼女には乾いた鋭さで標的を見定める姿がある。
「ジェニー」で繰り返される「五十門の大砲を具えた船」は前代末聞の威力を誇示する巨大な航空母艦になって、どっかの国の港に横付けされている。
次に歌われた「赤いローザ」は「ジェニ←」のクレッシェンドだが、五十門の大砲がその何万分の一の小さな爆弾に変身する中で、ローザ・ルクセンプルクの命を狙い、目標の抹殺に正確に成功する。ほとんどピアニシモに終始するような歌いぶりを通して、フォン・オッターは暗殺の正確さの示す残忍さを聴き手に伝える。小さな歌の持つ凄い力。
----
180センチとかいう長身の彼女はわずかに腰を振り、長いスカートの裾を少し持ち上げ、時に靴をちらっと見せたり靴音をきかせたりするだけでも妖しいエロティシズムを感じさせるのだが、そこに細く長い両手の指がくねくねしたり、組み合わされたりする仕種が加わって、パントマイムの名手に劣らぬ「歌の余韻の寸劇」とでもいったものさえ見せる。彼女の歌と動き。その一つ一つは、すでに伝統にあるものだが、フォン・オッターがやると、リアルでしかも全く新しい生きた芸術が、瞬間ごとに生まれてくる。
これこそが芸術であり、芸である。
「何とかの曲は誰それに限る」と言う人がいる。こういう言葉は格好が良く、潔く、倫理的にさえ見える。しかし、もし、それが「だから、ほかのはだめ」というところまで行ったら、それは音楽の息の根を止めかねない。あの曲は一つの弾き方しか正しくないとしたら、むしろその曲にどこか問題があると考えるのが順序ではないか。
----


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?