重複欠番 笑うバロック展(239) CD聴き取りノート2011/震災前後

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歌を忘れたカナリアはミネルバのふくろうになった 2011年03月04日
ヤコブスがサポートしたメータのヘンデルアルバムが届きました。
メーキングDVDつき。独特の指揮姿が楽しめます。最近はメーキングの公開も多く、観る機会に恵まれます。多くの歌手は、マイクの前だとステージ上とは違った表情です。メータはどっちが指揮しているのかわからない仕種?と思ったのですが、実際には楽器としての自分をコントロールしている仕種で、それとヤコブスの指揮姿が似ているといった方がよいでしょうか。(ヤコブスのマスタークラスのDVDもでるので、やはり興味を惹きます)
ジュノーに続くカストラート・レパートリ探索シリーズという趣。一見同趣向のバルトリのは、そうサザランドの「プリマドンナの芸術」の拡大版でしょうか。(サザランドの代打でスミジョーを使ったフレンチ・アリア集はすごかったので、スミジョーの行く末を楽しみにしていたのですが----あの人は今?状態でしょうか。最後の録音になるところだったあのアリア集を企画したサザランドも夫君も考えようではスゴスギます)ヤコブスのはよい意味で「バロック声楽の復興」です。むかしのインタビューで振ってみたいオペラとして「コシ」「椿姫」「カルメン」と----「コシ」以外も聴いてみたいですが、録音しているオペラや声楽作品を聴いていると、なんと真面目な!!生一本な人という印象。こうした見事な「バロック声楽の復興」に一生をかけ、をまざまざと聴くと落涙禁じえず。歌を忘れたカナリア(失礼!!)は、鳥かごを出て、ミネルバのふくろうになりました。
ヤコブスの歌(残念ながら実演は聴けず、ある意味実験的で挑戦的な残されたCDだけで)が透けて見えるような、メータの歌唱。「ファルミコンバッテレ」が入っています。キビキビした好演。私的には名曲の列にいれています。序奏が始まったらすぐわかりますものね。高低落差の効果たっぷりなカデンツや、ブラブラ(?)なダカーポの装飾も素晴らしい。
メータは、低めの胸声?がヤコブスとちょっと似ているかしら。野入さんのリュートも「野の花」という趣でよいです。
こんなにヘンデルのアリアアルバムがでるようになるとは、ねえ。オペラ全曲より、こうしたアンソロジーの方が、むしろ当時の劇場の雰囲気が伝わるように思います。幼いモーツァルトが嫌がった劇場の歌手たちの雰囲気は、むしろこうした「いいとこどり」アルバムの方が近いと。
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ハッセの「レクイエム」 2011年03月29日
聖歌を聴くと辛気臭いと一蹴する人がいました。確かにお経のようにも聴こえます。ルネサンス期の作品なると、器楽なしではその辛気臭さが増強されたように毛嫌いする人がいました。バロック期の器楽付きになると、オペラティックになり今度は俗っぽ過ぎるというのです。18世紀一杯くらいは、生産される作品の比率は教会関係が多いでしょう。パトロネージュの問題ともとれますが、いずれにしても見過ごせない音楽の中心であったことは確かです。
キリスト教やキリスト教会は所詮すべて人為のものです。大変好戦的で、排他的で、しかし抗し難い魅力のある装飾と宣伝に溢れています。
ふとハッセのレクイエムを出して聴いてみました。バロックオペラを少し聴きかじっていると確かにオペラっぽいけれど。それに先入観なく聴いたとしても、ハ長調を中心にした朗らかな曲がならび、別に悲しい感じじゃない。物々しさもない。弦楽器やティンパニの刻みが少し物々しいけれど、結局美しい供物のようなものです。
どんなお供物を捧げるか----いろいろと考えてみるものの、可能なら美味しいものがよいでしょう。きれいなものがよいでしょう。わたしは、天国の門をくぐるからといって、賑々しい音楽をとは思いませんが、だからといってただ湿っぽいから良いというわけでもないでしょう。ロマンは悲しみに打ちひしがれるようになりますが、バロックまでは芸術と実用が乖離していないのでしょう、差があまりありません。
普段お部屋を設えるように、音楽も鳴り響かせて、それでよいのかもしれません。明朗だと、天国の門をくぐることをうらやましがる反面、残った人に顔を上げて、上を向くように促しているようにもとれます。

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「われらがイエスの四肢」 2011年04月01日

久しぶりに再聴。やはり名曲と。
ネット検索すると素晴らしい解説が。
----≪「われらがイエスの四肢」は、7つの部分からなる連作カンタータです。各カンタータの題名は下記の通りで、十字架に磔けられたキリストの身体の各部への語りかけの形で、キリストの受難の痛みを慈しむ内容になっています。
Ad pedes(足について)
Ad genua(膝について)
Ad manus(手について)
Ad latus(脇腹について)
Ad pectus(胸について)
Ad cor(心について)
Ad faciem(顔について)
ブクステフーデのカンタータの中でも、「われらがイエスの四肢」は傑作の部類に入る作品と思うのですが、なぜかLP時代には録音がありませんでした。1987年のトン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラによるものが最初の録音で、それ以降、現在では入手のしやすいかどうかは別にしても、7種類ほどの録音が出ています≫----とこのCD化を1988年にわたしも買い、この作曲家とこの時代のカンタータを知りました。その意味で画期的な録音に出会ったといえます。
このネットには、以下の記述も。----≪「われらがイエスの四肢」の数ある録音の中で、私が最もよく聴くのは、BISから出ているバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏です。≫----とこれもなぜか手元にあり、先にかけてみたのですが、何か「違う」!!わたしは、スズキ某から人間らしい優しさとかユーモアとかを聴きとれたことがありません。失礼ながら「金になるから今は古楽だ、バッハだ」という風に聴こえてしまうのです。なぜでしょうかしら。----≪ERATOから出ているトン・コープマン指揮アムステルダム・バロック・オーケストラによる演奏は、バッハ・コレギウム・ジャパン盤やザ・シックスティーン盤を聴いてしまうと、その合唱の弱さが少し気になってしまうのですが、「われらがイエスの四肢」の最初の録音として、いまだに褪せない瑞々しい美しさを感じさせてくれます。≫----ともあります。個人的にハノーバー少年合唱団が気に入っているせいで、わたしはこれで十分です。「弱い」と聴かれるのは、昔シュミット・ガーデンが批判されたことにつながりそうです。もっとも今なら重唱形式が正統的といわれるのでしょうか。わたしはこのCDには、正統的というに相応しい説得力があると思います。コープマンの作曲家に対する愛情も程よいように。ハルレキンの録音も気に入っています。なんと卒業したてくらいのヒルデガルド(ヒレ)・パールも参加しています。コープマンの人材登用も気に入っています。演奏スタイルは好みが分かれるでしょうが、わたしはよいと思います。バッハのバイオリン協奏曲やモーツァルトのト短調交響曲も想い出深いです。そうだ「レクイエム」も聴いてみよう、もう一度。ホプリチとフェアブリュッヘンがバセットホルンを担当しています。何より「厚化粧の批判はあっても、それでもジュスマイヤはモーツァルトと同時代に生きたのだ」とジュスマイヤ版を採用しました。後から付け加えることはいくらでもできるが、畢竟捏造の域をでるのは難しい、それよりジュスマイヤ版から引き出せるものがまだあるのに怠っていないか、という風にわたしは解説を読みましたが。残念ながら、スズキ某の作品の取り上げ方は、そうしたヨーロッパの演奏家の努力の二匹目泥鰌ミエミエに感じられて。
(ジュスマイヤ版採用については解説を書かれた小林緑さんの言葉でした。しかし、先に読んだ岡田温司氏の「『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待
」ではないけれど、カッソーネや騎馬試合を踏まえてボッティチェリを見直す姿勢と似ているかもしれません。結局モーツァルトは聴けませんでした。知り合いで被災した人もいず、かといって仰々しく不特定多数のご冥福を祈ることも憚られます。わたしが聴くにはやはりハッセが相応です。森に隠された小さな枝にも祈りはこもっていますから。)

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食べて飲んで歌って笑って 2011年03月24日
自分の中の物差しでいい、贅沢に食べて、飲んで歌って、笑って----と思います。いまは「顔を上げる」方法を探します。
1杯のお茶に、そうした力があることを願います。
よく「前の戦争」という冗談で「応仁の乱」のことか?というのがありましたが、千利休は、1522年~1591年のまるっと16世紀の人。千年に1回の厄災にも出会っているでしょうか。
手の力を抜くには、一度手をギュッと握って、握った手を解きます。手には卵一個分くらいの空間ができているでしょう。この、少し緊張感を残したまま、力を抜いた手が、例えば楽器を演奏する手になりますし、本物の卵を割る手になります。卵の殻が割れないように握る動きは、初期にロボットのアームが目標にした人間の動きです。親指と他の4本が向かい合う掌の形状は、木から木へ飛び移るのには不向きで、木から降りて生活することを選択した「人」のものです。「1本の親指」対「4本の指」は、同時にバイオリンの弦の数です。鍵盤はこの向きの違う左右の各1本をどう動かすかが課題です。リコーダーは、右の親指と左の小指を除いた8本で8孔を塞ぎ一番低い音を出します。
春休み中の子供と一緒に、ユーチューブで不謹慎にも「元気が出るテレビ」の一部を観ます。失礼な話ばかりなのですが、堪えきれずに大笑い、お腹が痛くなりました。
どんなにどうにもならないことがあっても、それで終わりではありません。
確かに水と食料は大切です。でもわたしは、ずっと以前、福島でいただいたある「おはぎ」を思い出します。大層美味しいものでした。米も小豆も、空腹のときはお腹が満ちるように、気持ちが空腹のときにはおやつのように、いつでも人が顔を上げるように----また頂戴したいものです。


ある人が「炉と風炉のとき、すなわち夏と冬の茶の湯の心得、秘訣を教えていただきたい」と宗易(利休)にたずねたのに、宗易が答えたのは「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにもあたたかなように、炭は湯のわくように、茶は飲み加減のよいように。これが秘事のすべてだ」ということだったので、だずねた人は興ざめして「それは誰でも承知していることです」というと、また宗易は「それならこういう心にかなうような茶をしてみせてほしい。私は客に行ってあなたの弟子になろう」といわれた。その座に笑嶺和尚も同席していて、「宗易がいわれたことは至極もっともだ。それ諸悪莫作諸善奉行と道林禅師が答えられた心も宗易が今いったことと同じだった」とおっしゃった。


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