笑うバロック展(101) チェンバロの芸術、蓋とか脚とか(2)

バッハと関係が深いといわれるミヒャエル・ミートケのチェンバロ。
ベルリンのシャルロッテンブルクにあるらしい。
「白のミートケ」と「黒のミートケ」。なかなか印象的な命名ではありませんか。
どちらもシノワズリな装飾。
それで検索にひっかかってきたのが謎の「ジェラール・ダグリー」でした。
陶磁器同様に、一言で「シノワズリ」と片付けられない、日本の影響がある様子。

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ジェラール・ダグリーの記述のサイトから一部引用します。
どうも下の家具の装飾と「黒白のミートケ」は照合されるみたいです。

漆塗りを専門とする職人たちは、中国や日本の物にインスパイアされた装飾も熱心に提案し、ヨーロッパ中のシノワズリに強い衝撃を与えました。
また、ドイツでは、特に17世紀末から18世紀初頭にかけて、漆の芸術はかなり重要な発展を遂げました。最も影響力のある貴族の支援のおかげで、かなりのコミッションを持っていたいくつかのラッカー製造所が注目されました。これらのうち、特にジェラール・ダグリー(1665-1715年頃)について言及しなければなりません。オランダで生まれたダグリーは、1686年にベルリンに移り、ブランデンブルク選帝候の芸術的な側近に加わりました。また、彼は他の宮廷でも働き、多くの漆塗りの工芸品を生産しました。
ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に保存されている並外れたハープシコードのように、彼はヨーロッパ様式の家具にも絵を描きました。ダグリーの芸術の別の特徴、中国のレパートリーの直接派生物である風景の中の人物やオブジェクトで装飾された黒いベースの代わりに白いベースペイントを使用することも示しています。

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(FORTAGNE Claudia)氏の広島市立大学審査博士学位論文2014「ドイツにおける漆芸の発展と普及」から引用。

ダグリーは、ベルリンにおける制作の中で、東アジアの漆芸品を自らの手本とした最初の人間であった。またダグリーは、生粋のブレーメン人であるマーティン・シュネルを優秀な弟子として迎えた。ザクセン選帝候である強健王アウグスト(1670–1733)は、熱心な東洋美術の収集家であり、1710年頃マーティン・シュネルをドレスデンの自邸に呼び寄せた。こうしたシュネルの活躍もあり、ドレスデンはラッカー芸術のさらなる中心地として発展したのである。
ドイツにおいて、ヨーロッパで初めて、漆という日本の美を理解し、自国文化に合わせて取り入れたシュネルのような芸術家の登場は、ラッカー芸術の発展に大きく寄与したと言えるだろう。この史実は、没後300周年を記念し、ミュンスターのラッカー芸術博物館にて2015年4月より開かれる特別展「ジェラー・ダグリー 1660 – 1715とベルリンの宮廷工房」でも取り上げられる予定である。

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