作曲家の名前、いやカタカナ表記について

謎の作曲家ジョルノビッキ。

ジョヴァンニ・ジョルノヴィチ Giovanni Giornovichi (1747-1804)、2000年ころ当時、激安レーベルArte Nova、ジンマンのヒットにのって次々と。
その「徒花」のひとつ。以下の宣伝情報ではモーツァルトと同時代のイタリアの、と思ってしまいます。

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ジョルノヴィッキ/ヴァイオリン協奏曲集(1-6番,8-10番)
スターリング室内管弦楽団
ポール・イェーガー,アンジェラ・サトリス,ブリタニー・コシーマー,ターニャ・ダヴィソン,シャー・イー(ヴァイオリン)
指揮&音楽監督:クルト・サスマンスハウス
数奇な伝説に彩られたジョヴァンニ・メーネ・ジョルノヴィッキ(1735-1804)は自作を手に各国を旅した18世紀を代表するヴィルトゥオーゾでした。彼の作品は後のロマン派を導いたものとして近年再評価の気運にあります。サスマンスハウスとドロシー・ディレイ門下の若手ヴァイオリニストたちの競演です。録音:1995, 1996年世界初録音(第4番を除く)。

最新のウィキ検索では。
イヴァン・マネ・ヤルノヴィッチ(イタリア語:Giovanni Mane Giornovichi ; 1747年10月26日-1804年11月23日)は、18世紀のヴァイオリニスト兼作曲家で、イタリア人であると言われていましたが、その家族はラグーザ(今日のクロアチア)出身でした。彼が父母の血統がたどられるクロアチアに住んだという証拠はありません。後にフランス市民権を得ましたが、革命の間イギリスに逃げました。パリ、ベルリン、ワルシャワ、サンクトペテルブルク、ウィーン、ストックホルム、バーゼル、ロンドン、ダブリン、欧州のほぼすべての主要都市で演奏および滞在したため、彼のキャリアは全ヨーロッパに。彼はアントニオ・ロリの弟子であり、ハイドンの知人、ロンドンでコンサートプログラムを共有したようです。
ドゥブロヴニク、シチリア生まれの可能性。洗礼を受けた場所サンアントニオアバーテ1747年。そしてサンクトペテルブルクで1804年に客死。
姓の表現にはいくつかのバリエーションがあります。ヤルノウィック、ヤルノヴィック、ヤルノヴィチ、ガルノヴィク、ジャルノヴィッキ、ジェルノヴィチ。彼が住んでいる国、また作品を演奏または出版している国に応じて、彼の名前のスペルと発音のシフトが発生した可能性があります。
彼の姓と名を示す少なくとも1つの情報源は、1795年にロンドンでヤルノヴィッチの娘ソフィアの洗礼を記録した登録が存在します。

この廉価盤レーベルについて。

ドイツ・グラモフォンでキャリアを持っていた Dieter Oehms 氏が 1990年代前半に超廉価盤として設立したレーベル。創業者 Oehms 氏は 2003 年に半数以上のアイテム権利とレーベル名を、流通委託先だった BMG へ売却、 BMG は5年以上、先細りとなりながらも新録音・新発売を続けたが、結局2010年前後を境に、ほぼ活動を終了。
Dieter Oehms 氏は新たに、自らの名を冠した Oehms Classics を設立、2010年代に入っても盛業中。

AAMのチチッチが続編のようにCD録音しています。13、14、15番を演奏。

イタリアのパレルモ生まれのジョルノヴィチは、ボヤン・チチッチと同じクロアチア系の家系であると考えられており、チチッチが長く演奏と録音を夢見ていた音楽家です。

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