笑うバロック展(318) 偏愛してもいい曲(4)続 「人の声」指定

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マディ・メスプレとジャーヌ・ベルビエを起用した4つのモテット。

O Qui Coeli 631『おお、天にても地にても清きもの』 In Furoré 626『いと公正なる怒りの激しさに』  Longe Mala Umbrae Terrores 629『遥かなる不幸、恐怖の影』 Invicti Bellate 628『汝ら不屈に戦うべし』
1971、2年頃。

メスプレへの2008年来日時のインタビュー。「まず、初めに、天分に恵まれていなければなりません。それは天賦の才能、ですよね。それから、多少とも自分が持ち合わせている、能力を見つけようとすることです。スタート時に、コロラトゥーラに何か引かれるものがあり、向いていなかったら、コロラトゥーラになろうと決めることは出来ません。----他の音楽のタイプについては、私は知りません。知ってはいるのですが、興味がありません。つまり、他の全てのジャンルは、私たち(コロラトゥーラ)と同じような高度な歌唱技術は必要ありません。一方、こちらは、それに多くを費やさなければなりませんし、沢山の時間を必要とします。それは確かです。長い年月、と言ってもいいでしょう。数ヶ月では、とても才能があったとしても、大して上達することは出来ません。スポーツ選手のように長期(トレーニング)と考えるべきです。

ビバルディのソロモテット。ほとんど独唱協奏曲といえます。
Rv番号だと、623から634がおおよそ「急緩急」形式。最後の楽章は「アレルヤ」で締めくくられます。
はっきりソプラノ用もあれば、声域の広い歌手なら、メゾ、アルトどちらでもというものも。
ヴィヴィカ・ジェノーの627、632がyoutubeに。
不思議なもので声域がはっきりしていると、ああこれはバイオリン協奏曲だ、とか、ピッコロチェロ協奏曲だなあ、などと想像してしまうのですが、ジュノーの歌い方だと、あの独特の疑似カストラートなひと癖二癖ある歌いまわしにクラクラしながら、むしろ「人の声」以外想像ができません。大変技巧的なのに、器楽的でない。ほぼマンネリに様式化されたビバルディのソロコンチェルトなのに、ジュノーの歌は「人の声」指定としか考えさせません。
1991年都響の「四季」を聴きにいって初めて623を聴きました。その時は「四季」と「グロリア」の間に挟まれて、ささやかな間奏曲にしか聴こえませんでした。どちらかというと「オーケストラの少女」の「エクスルターテ・ユビラーテ」みたいな。

623『草原にて歌え』1723/24
624『薔薇の花々よ、息を吹け』1713-17
625『明るい星々』1713-17
626『いと公正なる怒りの激しさに』1720-35
627『渦巻く海で』1720-35
628『汝ら不屈に戦うべし』1713-17
629『遥かなる不幸、恐怖の影』1720-35
630『まことの安らぎはこの世にはなく』1713-17
631『おお、天にても地にても清きもの』1723/24
632『私は嵐の真っただ中にいる』1720-35
633『あなたがたの聖なる元首に』1713-17
634『あなたがたの光輝は山々を越えて』1720-35

メゾの時代なのですねえ。
オッター(1955生)はまだズボンという感じでしたが同時に大スターっぽかった。「ばらの騎士」です。バルトリ(1966生)は当時としては異端っぽかったので、バロックもので救われたという感がわたしは強いです。コジェナー(1973生)はバッハでメジャーデビューでしたがマーラーを聴く回数が多い。ジュノー(1969生)はカストラートレパートリでスタート。以降カストラートのレパートリの広さと多様さを楽しませてくれている、そんなイメージです。かなり特殊な歌い方に見えますので、年齢とともに衰えていくかもしれませんが、この場合録音が残される、というのが救いであり愉しみと思います。

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