(2012年9月)「めぐり逢う朝」  訳者による あとがき

「めぐり逢う朝」  訳者による あとがき採録

早川書房から出ていたキニャールの本も今はなかなか見かけません。映画の公開時期に合わせて出版だったと思います。、映画、音楽と合わせてみると、同じ人物を3つの視点で観ることになって、よくできた相互補完と思います。劇中にろうそくの火を消す儀式が観られます。音楽はクープランが使われていましたが、シャルパンティエはポールロワイヤルと関わりがありましたので、かれらのルソンを聴くのにも、よい補完関係ではないでしょうか。
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「めぐり逢う朝」パスカル・キニャール作
訳者による あとがき (高橋啓)
 まずは素朴な感想から書き起こすことをお許しいただきたい。この小説を訳していて、私は信じられないほどの幸福と感動を味わった。文字どおり、本を持つ手が震えた。芸術とは何か、音楽とは何か、そんなことが頭にあったのではない。とにかく、この小説のディテイルのすべてが直接肌にしみた。野趣(ソバージュリー)に満ちあふれたサント・コロンブ氏の生活のすべてがいとおしく思えた。彼が自分の領地でつくった葡萄酒と交換に布地や野禽を手に入れるというくだりも、マドレーヌとトワネットがギニョットとともにビエーヴル川で釣りをし、川魚を空揚げにするくだりも、アルデンヌの貧しい土を焼いたパイプも、桃のデザートも、妻を想って自ら慰めるサント・コロンブ氏も、みなたまらない。私にはこれらすべての要素がフランスの十七世紀という、場所と時間の限定された風景に属するものとは思えなかった。
 じつは、私は自分の祖父のことを想い浮かべながら、このサント・コロンブ物語を読んでいた。東北の一寒村に生まれ、北海道開拓の第二世代としてはとんど自給自足の生活をおくっていた祖父。馬、豚、羊、鶏を飼い、サント・コロンブ氏と同じように裏庭に小屋を建て、母屋に自分の寝室があるにもかかわらず、そこにベッドをしつらえ、そこで寝起きしていた。子供のころ、私は祖父といっしょにその粗末なベッドで寝るのが好きだった。その色あせたグリーンのごわごわとした麻のシーツと凍りついたガラス窓を私は今でもよく憶えている。
 私はこの小説を読んでいて、そのような幼年期の記憶のディテイルがよみがえってきて、涙が止まらなくなった。そして無性に著者に会いたくなり、パリまで飛んでいってその感動を思いきりぶちまけた。キニャール氏はたぶんあきれたにちがいない。こんなことを書くのも、誰もが、サント・コロンブ氏が妻にたいして、あるいは私が祖父にたいして抱いているような、かけがえのない記憶を胸に秘めているにちがいないと思うからだ。この作品はそのような記憶を時と場所を超えて亡霊のようによみがえらせる官能的な力を持っている。そして、この作品が小説であるかぎり、その官能性が伝わらなければ意味がない。訳者としてはまずそのことを念頭において翻訳したつもりである。
 とはいえ、本書は史実とフィクションが綾織りのように織りこまれた作品でもある。史書に残っている人物も架空の人物もいる。文献に基づいたエピソードもあれば、想像力から紡ぎだされた場面もある。ラシーヌからの引用もあれば、著者が捻出した詩句もある。あまりなじみのない固有名詞もたくさん出てくる。しかし、著者との合意でくだくだしい訳注や参考文献のリストなどは付加せず、訳者のささやかな知見のおよぶ範囲で時代背景に関する必要最低限と思われる情報を「あとがき」のなかに盛り込むことにしたので、まずはそれをご了承いただきたい。
●作品と時代背景
 この小説は、大きな歴史の流れから見ればまさにディテイルやエピソードにすぎないものにたいする哀惜で満ちあふれている。すでにサント・コロンブという音楽家を主人公にすることがそうなのだ。よほどのバロック通でないかぎり、この音楽家の名前は初耳だろう。生没年ですら、一七〇〇年前後に死んだことくらいしか明らかになっていない。あるいは、一時期は隆盛をきわめ、だがまるでルイ十四世の親政と軌を一にするように廃れていったヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)という楽器。隠士(ソリテール)と呼ばれるジャンセニストたちが本拠地にし、やはりルイ十四世によってつぶされたシュブルーズのポール・ロワイヤル修道院、パリのサン=ドミニク=ダンフエール街にあった彼らの私塾(プティット・エコール)、同時代のプッサンやシャンパーニュに比べればほとんど匿名の画家と言ってもいいボージャンのゴーフレット……。この小説に登場する人物はみな隠士だ。歴史の永遠の隠士たちだ。そして、大きな歴史の流れを前にしたとき、多かれ少なかれ誰もが隠士なのだという思いを禁じることができない。
 だが、問題はその隠士たちをのみこんでいった大きな歴史のうねりだ。中世からルネッサンス、そしてバロックの到来とその終焉。この作品の背後に流れているのはそのうねりだ。おそらくバロックはルネッサンスの光輝に照らされながらも、中世の艶やかな闇の記憶をその内部に湛えていたのだろう。ミシュレは『魔女』のなかの「サタンは十七世紀に勝鬨をあげる」と題された章でこう言っている。「この世紀の表面、すなわちその最上層が文明化し、啓蒙され、知識という光明にあふれればあふれるほど、その下では、聖職者の世界や尼僧院や、信じやすく、病気がちで、何でもすぐ信じてしまう女たちの世界の宏大な領域がますます固く閉ざされたのである」(篠田浩一郎訳)
 このミシュレの言葉は、一口にバロックといってもその内部にほとんど相反する傾向、すなわち大きな空間を志向する傾向と閉ざされた親密な空間を志向する傾向をはらんでいるこの様式にそのまま当てはまるように思える。たとえばイタリアで発展したオペラはもちろんのこと、J・S・バッハのあの荘厳な『マタイ受難曲』やリュリの華麗な宮廷音楽が一方にあり、他方にはまるで人の声や肌のぬくもりを再現しているかのような大小さまざまの器楽曲もある。また、ローマのバロック建築のように、遠近法の濫用とも思える、ただやみくもに巨大化した恐竜のような空間と天井画があるかと思えば、スペインの静物画(ボデゴン)やフェルメールに代表されるオランダの室内画、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのあの冷たい蝋燭の光、そのすべてに共通する稠密なマチエールの肌あいもある。
 そのコントラストは、王国の地図を拡大しようとする国家の動きと歩調を合わせたカトリック=イエズス会の世界的布教活動と宗教の大衆化、そしてこれに結果として弓を引くことになったジャンセニストの純粋主義、ひいては選良主義(エリティスム)との対立にもつながるだろう。ミシュレふうに言えば、そこにあるのは理性という名のサタンの呼び声にたいする恍惚と不安のせめぎあいだったのかもしれない。
 だが、このフランスの十七世紀という時代はもう少し厳密に考えたほうがよさそうである。ルイ十四世が王位につくのが一六四三年、その親政が始まるのが六一年。このあたりから時代は急回転していく。ロベール・マンドルーは『フランス文化史』のなかで、近代フランスが(つくられた)一六〇〇~六〇を「青春時代」と呼び、「この時代は、それが体験したさまざまの社会的・宗教的ドラマ (これは成長途上の危機であった)のなかで、おそろしく自信にあふれていた。あらゆる点で、この時期こそ、もっとも豊かな、もっとも生きいきとした十七世紀なのである」 (前川貞次郎・鳴岩宗三訳)と述べている。この小説は一六五〇年にサント・コロンブ夫人が亡くなるところから始まっている。つまり、物語はこのフランスの青春時代が終わりを告げようとしているところから始まっているのだ。そしてまた著者は音楽家の妻の死と迫りくるバロックの終焉をも重ね合わせたかったにちがいない。
 なにゆえサント・コロンブはヴェルサイユをあれほどまで頑なに拒否したのか。作家の想像力によれば、彼はポール・ロワイヤルの指導者A・アルノーとともにあの画期的な『文法』を著したクロード・ランスロと学友だったことになっている。だが、作品をていねいに読めばわかるように、彼は狂信的なジャンセニストとしては措かれていない。ただ、リベルタン気質のゆえにルイ十三世の寵愛を失う詩人のヴォークラン・デ・イヴトー(一五六七~一六四九)や画家組合に属する市井の一画家にすぎないボージャン(生没年未詳) など、彼の交友範囲は権力から遠い場所に限られていることが暗示されているだけだ。マドレーヌにしても、失恋によって一種狂信的にはなるが、修道院の禁域に入ることは拒否する。この親子はどこからも孤立している。あえて自らを閉ざしていく。いつの時代でも、歴史の流れが急速に変化してゆくとき、無謀なまで過激にその流れに抵抗を示すか、あるいは頑なに自閉していく人々があるのだろうが、この時代に即して言うならば、このような頑なさ、純粋さへの傾斜は、やはりあのブレーズ・パスカルを彷彿とさせずにはおかない。
一六五四年十一月、三十一歳のパスカルはある啓示を受け、これによって彼はそれまでの科学的業績のすべてを捨て、ポール・ロワイヤルの門下に入っていったとされている。その夜、彼はあの〈覚え書(メモリアル)〉に「心地よい全面的な放棄」と書き記す。そして、アルノーが書いた『頻繁なる聖体拝受(フレカント・コミュニオン)』をめぐるイエズス会およびソルボンヌとの論戦を引き継ぐかたちでジャンセニスム擁護の先頭に立ち、『プロヴァンシァル』と呼ばれる一連の書簡体の抗議書を書き始めることになる。さらにその矛先はあのデカルトにさえ向けられ、「無用にして不確実」とまで断じる。
 パスカルに何が起こったのか。ここはそれを論ずる場所ではないし、私にはその能力もない。ただ、イエズス会とソルボンヌは、あれはど世間に波風を立てるのを避けようとしたデカルトにたいしてさえ、彼が死ぬと(一六五〇)、にわかにその学派への攻撃を強めていったことはつけ加えておく必要があるだろう。
 ようするに、フランスとブルボン王朝の名のもとにすべてが一元化され、統合されてゆく時代だったのだ。ヨーロッパ芸術の流れもその後は周知のとおり、ダヴィットからドラクロワヘ、ハイドン、モーツァルトからベートーベンヘ、古典主義からロマン主義への大きな潮流があらゆる小さな芸術を呑みこんでいった。壮大な歴史画やシンフォニーは近代国家の強力な軍隊と同じだ。すべての感受性を根こそぎ動員し、圧倒してしまう。この近代国家、民族主義的・産業主義的国家の成立という観点に立てば、ルイ十四世からロベスピエール、ナポレオンへと続く時代は一貫した流れであって、ギィ・スカルペッタの言うように、フランス革命はその大騒乱のなかの打ち上げ花火にすぎなかった。まだ中世の穏やかなたたずまいを残す無数の小さな朝や、リベルタンやコスモポリタンが旅の空にみた朝は巨大国家のサイレンにかき消されていった。それはけっしてヨーロッパだけに限定された遠い昔話ではないだろう。
 しかし、歴史の大きな流れとは別に、バロックの時代は永遠に和解できないある対立をはらんでいたように思える。
 たとえばデカルトとパスカルの時代から三世紀もたって、「この無限の宇宙の永遠の沈黙が私をおののかせる」という『パンセ』の断章にたいして、「犬のように吠える」とパスカルを揶揄したヴァレリー。宇宙を無限と感じたとき、それに恍惚を感ずるか。それとも慄きを感じ、自らを罪深いと感じるか。それは今でも感受性と思想のありかたをめぐる大きな根本的な対立であるように思える。
 あるいはマチスをとりあげてみてもいい。バロックを嫌い、あのベラスケスさえも「私の画家ではない」と言い、むしろゴヤ(!)への親愛を語ったマチス。好んで部屋の隅を描いたマチス。その空間はどこにも広がらない。ただ、確実な色彩の安堵があるだけだ。ボージャンの絵も不思議だ。この世の快楽のはかなさを暗示したこの絵の構図は、それにしてもなぜ机の片隅なのか。そして、ヴィオールという楽器にたおやかな肉声だけを求め、ただ哀惜の情を響かせようとしたサント・コロンブ……。
 そこには美が宗教もしくは倫理の世界に通じてゆく、細くきわどい道があるように思える。パスカル・キニャールは画家ボージャンにこう語らせる。「私としては、あの神秘の炎にまでたどりつく道を探しているのだがね」。これはジョルジュ・ド・ラ・トゥールを愛する著者自らの言葉でもあるだろう。
●作品の成立事情と著者パスカル・キニャールについて
 周知のように、この作品はアラン・コルノーの映画の原作である。パスカル・キニャールが一九八七年にアシェット杜から上梓した『音楽のレッスン』(La lecon de musique)というエッセイに触発されたこの映画監督が、ある日作家のもとを訪れ、ヴェルサイユを舞台にした音楽家の映画をつくってみたいと申し入れたことがこの小説の発端だそうである。だが、パスカル・キニャールは自分にはシナリオなど書けないし、リュリのようなヴェルサイユの大宮廷音楽家には興味がないと最初は断った。だが、考えは変わる。このエッセイで脇役を演じたアンチ・ヴェルサイユの音楽家サント・コロンブを主人公にした小説なら書けるかもしれない……。このようにして出来上がったのが本作品であるが、実はサント・コロンブはこのエッセイの一年前に発表された『ヴュルテンベルクのサロン』にすでに登場しているのだ。しかも音楽家の主人公はサント・コロンブにまつわる貴重な資料を発掘することで一躍有名になってゆくという設定で……。不思議な因縁だ。キニャール氏は私にこう言った。「サント・コロンブのことは三度書いた。もうこれで終わりだ」と。ちなみに『音楽のレッスン』は近く河出書房新社から吉田加南子さんによる翻訳が出ると聞いているから、この「失われた声」を主題とするエッセイと反骨の音楽家を主人公とするこの小説は互いの補注となってくれるだろう。
 パスカル・キニャールは今輝いている。作家本人はただ自分の道を模索し続けてきただけなのに、いつのまにかその周囲が、状況が彼を時代の作家として浮上させてしまうということがあるのかもしれない。
 この小説を読めばおわかりのように、パスカル・キニャールという作家は派手な文体を持っているわけでもないし、大向こうをねらった作品を書いてきたわけでもない。むしろオーソドックスでクラシックという印象を受ける。その彼が時代の寵児とまでは言わないものの、何か追い風のようなものを受けて、今さっそうと輝いている。それは具体的には何よりも、本作品がアラン・コルノーによって映画化され、公開された直後一カ月で五十万人もの観客動員を記録したことによるのかもしれないし、あるいは一九八九年に上梓した『シャンボールの階段』(Les escaliers de Chambord)が最後までゴンクール賞を争ったことによるのかもしれない。だが、私には彼に今吹いている時代の風はそんな一時的なものではないように思える。
 六〇年代の終わりから、七〇年代の前半まで、彼は詩や詩論を書いていた。たとえばプレイヤード派の先駆者にしてマラルメとも比較されるモーリス・セーブ論『デリーの言葉』などがその代表作だ。しかし彼はガリマール社の出版選考委員をつとめるかたわら、徐々に「小説」へと傾斜していったように見える。たとえば一九七六年に刊行された『読書する人』 (Le lecteur, Gallimard)、七九年の『カリュス』(Carus, Gallimard)、八六年の『ヴュルテンベルクのサロン』(Le salon du Wurtemberg , Gallimard)。むろん彼はその間にもさまざまなエッセイ、批評も書いている(とくに八巻に及ぶ『小論集』(Petits traits ,1990,Maeght)は彼の私的エッセイの集大成であり、本書の原タイトルも第一巻冒頭のフレーズ「世界のすべての朝は二度ともどってはこない。そして友人たちも」に由来している)。が、彼が小説を書くことによって一般の読者にその存在をアピールしていったことは確かだろう。彼は名声を欲したのだろうか。小さな知識人の世界からもっと広い世界へと飛び出していきたかったのだろうか。
パスカル・キニャールのことを考えていて、私がつい思いうかべてしまうのは、ロラン・バルトのことだ。私にとってロラン・バルトという作家はただひたすら逃げ続けた人である。『零度のエクリチュール』(五三年)を発表したとき「ああ、やってしまった」とパリの街角で顔を赤らめたというバルト。そこから絶えず彼は逃げ続けたのではないか。彼は堅苦しい知識人の顔はしたくなかった。短い断章と小振りの本をとりわけ好み、ミスティフィケーション、逆なで、皮肉の文体を駆使し、たえずエッセイと小説の中間形態のようなところに逃げ込もうとしたバルト……。
 彼はいつか知的衣装のすべてを脱いでみせたかったのだと思う。だが、時代がそれを許さなかった。たとえ彼が小説を書いたとしても、やはりヌーヴォー・ロマンの作家のひとりとなるしかなかっただろう。あの時代、臆面もなくただ美しい文章(小説)など書けるわけがなかった。それはフランスでも日本でも事情は同じだったはずだ。それは思想と批評の時代だった。良心的で知的であればあるはど、時代の熱くシニカルな風をたくさんはらまざるを得なかった。六〇年代に青春をおくっているパスカル・キニャールがそんな時代の風に鈍感でいられたわけがない。だが、そんな時代も終わりを告げた。まるでここに訳出した作品と同じように、何かが終わりを告げたところから、小説家パスカル・キニャールの物語は始まったようにさえ思える。彼は今、かつての時代の名残りである知性と批評の衣を脱ぎ捨て、もっと自由に自分の感受性を羽ばたかせようとしている。そして自ら、今や羊水のようなものを獲得した、と言うのだ(Le monde des Livres, le 3 aout 1986)。
 あるいは、もともと彼は職人気質であったというべきなのかもしれない。彼は一九四八年にフランス北部のユール県に生まれ、その生家はアルザスで代々四世紀にわたってオルガン製作にたずさわってきた家だという。彼自身もチェリストである(現在はヴェルサイユ・バロック音楽祭の運営委員長をつとめている)。こういった経歴からみても、彼は感覚から離れた抽象的な概念を構築していくタイプではないだろうし、特異な資質や文体をことさら前面に押し出す作家でもない。バロック時代の音楽家サント・コロンブに即して語り、古代ローマに身をゆだね(Albucius,P.O.L,1990)、同じくローマの野蛮な雄弁家ポルシウス・ラトロンを甦らせ(La Raison, Le Promeneur,1990)、あるいは十七世紀のポルトガル版(阿部定)とでもいうべき貴族の恋愛物語(La frontier, Chandeigne,1992)を書くとき、彼のペンは精彩を放つ。これらの作品ではまさに演奏家としての資質が輝いているように思える。
 パスカル・キニャールは今、小説という器を得ることで、錯綜したヨーロッパの歴史(イストワール)のなかを自由に泳ぎまわり、自らの感受性を軸にした新たな物語を紡ぎだそうとしているかのようだ。『ヴュルテンベルクのサロン』ではフランス人の母とドイツ人の父を持ち、二つの言語と文化に引き裂かれたシャルル(カール)・シュノーニュという主人公を登場させる。それはミラン・クンデラのあの『不滅』に登場するアニェスを彷彿とさせる。そして、チェコからフランスヘ亡命し、再びチェコへは戻りそうもないクンデラ自身、もはやチェコ文学とかフランス文学などという枠組みは信じていないだろう。亡命作家といえば、ハンガリーからスイスへ亡命し、母語ではないフランス語で小説を書いているアゴタ・クリストフもまたこの種のヨーロッパ作家のうちに数えてもいいだろう。さらにまた日本人の両親を持ちながら、英語によって英国貴族の最後の姿を措いたカズオ・イシグロ。これに加えて、パスカル・キニャールのファンでもあるらしいポール・オースターのことも考えると、今世界の前線に立って仕事をしている小説家たちのある傾向が見えてくるように思える。彼は若いころフランスを放浪し、アメリカに帰ってからはフランス語の翻訳で身を立て、そこからあの『孤独の発明』という奇妙な「自伝」をもって小説の世界に入っていった。これらの作家の「孤独」の響きはどこか似ている。
 ここにあらためてボーダレスという言葉を持ち出す必要もないだろうが、ただパスカル・キニャールの場合、それは歴史あるいは時間感覚の方面にあらわれているように思える。彼の文章を読んでいると、アルカイックという言葉を思い出す。法隆寺の百済観音やガンダーラの仏像の微笑みを思い浮かべる。この言葉には擬古趣味の意味もあり、気取った文体を揶揄する場合もあるが、彼の文体にはそれを突き抜けた奇妙な笑いがある。好都合なことに、このアルカイスムには精神分析学では「太古性」という概念が与えられている。この太古性、それが不思議に東洋的に響く。だから彼の文章を読んでいると、それだけで西洋と東洋が水面下で流通しているという感覚を味わうことができる(事実、彼の中国の古典への傾倒ぶりには並々ならないものがある)。そして、じつは東洋と西洋という垣根自体が歴史の(長い)過渡期の産物にすぎなかったのではないかという気さえしてくるのだ。
今回の翻訳にあたっては、文字どおり各方面の方々のお世話になった。まずは、訳者の突然の面会申し入れを快く受け入れてくれた著者パスカル・キニャール氏に最大級の敬意と謝意を。さらには彼との約束をとりつけるために労を惜しまれなかったフランス著作権事務所の岡田幸彦氏とそのスタッフの皆さんにも感謝を捧げたい。また明治大学助教授の川竹英克さん、学習院大学助教授の吉田加南子さん、上野学園大学教授で古楽がご専門の大橋敏成さん、あるいは映画配給元のヘラルド・エースのスタッフの皆さん、その他大勢の方々にも助けていただいた。すべての人の名前を列挙することはできないが、この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
 そして今回もまた早川書房の祖川和義さんとのコンビで仕事をできたことを幸福に思うと同時に、校閲課の竹内みとさんの入念なチェックにも、この翻訳が私のところにこぼれ落ちてきた偶然の巡りあわせにも感謝したい。 訳者 一九九二年十月

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