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笑うバロック(681) ラモーの甥について

「ラモーの甥」の「ラモー」があのラモーだ、とは知っています。この本がディドロによって書かれた、ことも知っています。そして、この本の舞台に設定されているのが、「カフェ・ド・ラ・レジャンス」であること、も、まあ知っています。
ただし、それだけ、です。
何が書かれているのか?いやさっぱり。
むかしむかし、とある手練れのピアニストが「クライスレリアーナ」を弾き、見栄を張ってホフマンの名前を口走ったところ、あなたも読みましたか、と誤解され恥ずかしい思いをしました。
知らないモノは知らないと決め込んだ方が好い、というわけ。

「他では読めない」らしい。
百科全書派の巨匠ディドロ(1713-84)の最高傑作とされる対話小説.大作曲家ラモーの実在の甥を,体制からはみ出しながら体制に寄食するシニックな偽悪者として登場させ,哲学者である「私」との対話を通して旧体制のフランス社会を痛烈に批判する.生前は発表されず1805年ゲーテのドイツ語訳によって,俄然反響を呼んだ.

ネットにあがった舞台上演された際のダイジェスト。
ちょっと「アマデウス」っぽいかしら。

2003/2004シーズンのストラスブールでの上演

適当検索によると、ディドロが思想的に対立する集団を批判するために書き、生前出版はせず、筆写された原稿が巡り巡ってゲーテのもとに。ディドロが活動したのは、フランス革命以前で思想的対立といっても当時の政治や宗教と軋轢が生まれた様子。レジャンスでラモーの甥と対話することは体制批判ということだったのでしょうか。ゲーテが翻訳した1805年は、「英雄」公開演奏、「熱情」完成、「レオノーレ」初演という年です。

彼――わしはリアル銅貨一枚で、ちびのユスのお尻に接吻してやりまさあ。
私――ふん!しかし、君、あの女は色が白くて、かわゆくて、若くて、やさしくて、ぽってりしている。だから君なんぞよりもっと上品な人でも、時にはそういう卑屈な行為をやらんとは言えんね。
彼――おたがいに話をわかりやすくしましょう。つまりお尻に接吻するという言葉には、文字通りの意味と、たとえていう場合の意味とがありますね。

従来、さまざまな版で検閲されたり、無難な単語に置き換えられたりしてきた箇所である。哲学者は「お尻に接吻する」という慣用句の意味を解せず、字義通りに解釈して、ラモーにたしなめられている。ラモーは「おべっかを使う」という意味でこの表現を口にしたのである。『ラモーの甥』全編は、こうした言語の複雑な多層性を縦横無尽に利用して書かれた怪物的作品

デイドロとドイツゲーテのデイドロ読解を中心に
鷲見洋一

ディドロって誰?という方、検索して。

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