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笑うバロック展(317) 偏愛してもいい曲(4)「地上に真の平安はなく」

この世に真の安らぎはなく
映画「シャイン」のテレビスポットで使われていたと思います。本編を観て、僅かしか登場しない(当たり前ですかラフマニノフがメインなのだから)のでがっかりして、探しました。
ネグリのビバルディ宗教曲選集が最初かしら。アメリンクの録音があったと記憶していますが。その後オワゾリールでカークビーが、というよりビバルディ復興の立役者のひとりホグウッドが取り上げました、というべき。
わたしは、1991年の黒沢の「8月の狂詩曲」でスタバトマーテルを知ってから注目するように。黒沢映画としては傑作には入らないのでしょうけれど、思わぬ出会いを得ました。ホグウッド盤が映画のサントラのように帯付きで売られました。ホグウッドの仕事が、協奏曲だけでなくかなり広範囲なのに感心しました。

現在でもきっとビオ―のライブがユーチューブで見られるでしょう。
モテット≪地上に真の平安はなく≫ RV630
アリア: 地上に真の平安はなく
レチタティーヴォ: この世は魅惑的な色彩で私たちの目を欺き
アリア: 蛇は潜む
アレルヤ

キングの宗教曲全集の第2巻。デボラ・ロバーツのソロ。ダカーポの装飾も程よい加減。オーパス111のシリーズ。アンケ・ヘルマンのソロ。マルコンとVBOの伴奏で、ケルメスのソロ。少々逸脱気味の装飾。ナクソスの全集の第1巻として。よい意味でやり過ぎない平凡な演奏。

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以前Rv621「スターバト・マーテル」をyoutubeで辿ってみましたが、Rv630「まことの安らぎはこの世にはなく」も結構な種類アップされています。
Rvナンバーでは580番台辺りから宗教声楽曲です。608「ニシ・ドミヌス主が家を建てるのでなければ」、623「カンタ・イン・プラト牧場に歌え」から642あたりまでが主にソロ・モテットといえそう。
ちなみに、649から686あたりがソロ・カンタータ。684「チェサッテもうやめておくれ」。

ビバルディの場合、去勢歌手の音域とダカーポアリアの装飾歌唱法が研究されるまで、なかなか手つかずだったといえそう。オペラの分野と関わっていますから。
「スターバト・マーテル」はボウマンが男性アルトのレパートリとして開拓後、アンリ・ルドロワのライブが1982年。ジェラール・レーヌのハーモニック盤が1988年。しばらく男性のレパートリになりました。最近では女性もまた録音するようになり、ただ1980年より以前の女性歌手とは全く違う印象になるでしょう。

中古でマリア・ザードリのソプラノ・ソロ・モテット集を取り寄せ。1992年録音。この時期伴奏をつけているパル・ネメトなどのハンガリー勢が勢いがありました。20年経て聴くと、声量などやや脆弱な印象。ビバルディ的な装飾歌唱も不十分に聴こえます。レーヌはずっと以前のインタビューでリピートなどの装飾は綿密に記譜している、と。記号化されたフランスバロックの装飾法とは違うカデンツァ作曲に近いもの。それでも宗教声楽という枠と、19世紀のオペラのように歌い過ぎない枠がある様子。
1994年に「カストラート」が公開され、去勢歌手の歌唱技法の再現が進みます。
この間にルネ・ヤコブスの活躍期があるものの、アルフレド・デラーと被らないレパートリの開拓からか、主に各地域の初期から最盛期バロックの歌唱に足跡を残すもの、代表的レパートリの指摘しづらい業績。カバリ、チェスティ、シャルパンティエの録音も歌手としてよりディレクターとしての仕事の方が重い感じです。自分の仕事の領域の選択に厳しい、感じかしら。
そのうちに次々新世代が育ち、2002年にヴィヴィカ・ジュノーのサポートをして、それで去勢歌手の探求の結果と解説しています。映画では声質の似たソプラノと男性アルトの声を合成する手法で再現していた去勢歌手の歌声を音域、声量、歌い回しの技法などをメゾに再現させます。わたしの下手な解説読解によると、要は後の時代のメゾのカテゴリーの登場に受け継がれているから、そこから類推した技法が去勢歌手の再現に近いはず、と。おそらくはデラーのような現代の合唱団に残存した男性アルトの伝統から類推するのでなく、劇場の歌手たちから遡る方法、ただし19世紀の前半あたりと、現代の立派なオペラ歌手たちの伝統とは一線画す、どこかで断絶がある?ことを考慮して。モーツァルト、ロッシーニのオペラと、ベルディの間の何か差異でしょうか。

実はビバルディに関しては、1999年に立派な名声あるオペラ歌手のチェチリア・バルトリがビバルディのオペラ・アリア集で参入し、その後この立派なオペラ歌手は去勢歌手の再現と、その技法との競合の中から咲いた伝説の女性歌手たちを辿るようになり、歌唱芸術のエンサイクロペディア化していきます。同時にビバルディを含むバロック時代のオペラ復興に寄与します。
去勢歌手とそれが活躍したバロック・オペラが復活するにつれて、それらに伍して活躍していた当時の女性歌手たちの技量が注目され、それがザードリなどのソプラノたちから、次の次世代パトリシア・プチボン、ジモーネ・ケルメスみたいなエキセントリックと聴き紛う歌手の活躍に移行した、そんな感じ。
630のモテットも、ケルメスのは少し自由にやり過ぎのようなエキセントリック(バロック・オペラティック?といえなくもない)と聴こえなくもありません。ただザードリのか弱さはありません。整然とした宗教曲枠のモテットとしては1996年のデボラ・ヨークの録音が中間くらい。リピートの装飾は即興性よりバッハの変奏曲のような整然さです。

ここへきて、朗読のごとき小さなエール、エアから、世俗と宗教の間、教会からオペラ劇場まで含めたバロックの歌唱芸術の全体像がかなり再現され、活き活きとした演奏に親しめるようになりました。
バルトリは、去勢歌手の探求とその後のプリマドンナの時代の探求をコンセプトとして進めています。フィッシャーディースカウのようなエンサイクロペディアでなく、もっと歴史的視点を含めて。古楽の系譜が活躍の中心でも、バルトリと比較したときの独自性が要求されていると思います。レパートリやコンセプトだけでなく、基礎技法の点でも。
バルトリと似たポジショニングの立派な歌手で結局バルトリのところまでの体力がなかった、と言わざるを得ない例は、バーバラ・ボニー、シルビア・マクネアー、スミ・ジョーあたり。体力があったのがアンネ・ソフィ・フォンオッター、ナタリー・シュトゥッツマン、マッダレナ・コジェナーあたりかしら。

ジュノーのビバルディのオペラ・アリアをyoutubeなどで観てみると、もはや曲芸的で滑稽にすら見えます。1970年代にナイジェル・ロジャースがアラブ歌謡の歌唱法を取り入れたモンテベルディを披露し、そういった民族音楽の技法が、消化され身について自然に活用できるようになった、とそんな思いが湧いてきます。

最新はユリア・レージネバのものでしょう。


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