(1994年) 気恥ずかしいプロフィール

若気の至りというか、何もわかっていないのに、偉そうというか。
1994年ころに、その時点で集まっていたCDのリストを投稿しました。さすがにこんな切り口でコレクションしている人はいなかったようです。
余計な思いをしゃべりすぎました。誤解のないように「琵琶の語りの世界によく似て」いません、念のため。偶然の共時的なことを結びつけて思いを語りました。そうしたある意味文明論的「聴き方」、また「作品読解の仕方」はやはり適切な西洋音楽の理解にならない。翻って考えてみれば、古楽の苦難の活動史、受容史を認識していなかったのです。空想だ、捏造だといわれながら、そうではない根拠を必死に追求してきたのでしょう、わたしの思いがアマチュアの戯言であっても、やはり飛躍が過ぎるものでした。ごめんなさい。
当時わたしも若かったので、素晴らしい発見と、感じたものです。が、適正な方法で、適正に理解してもらわないと一過性で終わってしまう、後年年取るほど自分の真摯さの欠如が身に沁みてくるのでした。
というわけで、この記事はわたしの戒めです。
こうして記しつつ、少しずつでもコレクターとしての嗜みができているとよいのですが。

画像1

画像2

この時点でのリストアップ。
フランスバロックのルソンについては、エラートのミュジフランス・シリーズ、ヴァージンのジェラール・レーヌの活躍が目立ち始めています。OPUSS111のマルタン・ジュステも。レーベル演奏家の変遷期でした。このリストでは取り上げられていないオワゾリール、ハルモニアムンディなどの録音は一昔前という見方に偏っていました。特にこの分野では、ヤコブスの仕事の評価がわかれていました。シャルパンティエのルソンはLPレコード時代を代表する業績として、クープランは反対、一聴ヤコブスの自身の能力と解釈に対する逡巡と聴こえます(音程、歌唱スタイル、装飾など)。もっともCD化が出そろうまでにまだ少し時間を要しました。1990年代、日本はバブル崩壊後の経済低迷期に入っていました。そうこうしているうちにインディペンデントレーベルの活性化、後進たちの活躍が活発化していました。
イタリア、ドイツのバロックにも作品が点在することが調べがついてきました。スカルラッティなどのナポリ系、ゼレンカなどのドレスデン系。
編成も独唱+通奏低音だけでなく、声楽器楽とも規模が拡張された作品の存在が確認できました。
ルネサンスは、タリス、ラッススなどの代表格が出そろっていました。
バロック時代の拡張規模編成と、ルネサンスポリフォニーのスタイルが、近現代になって新しい作品を生みました。近現代では、反対に独唱+伴奏のスタイルは演奏作曲の機会がほとんどないらしく、作品も見当たりません。ストラビンスキーの「トレニ」は自演以外まだ見かけません。(最近ヘレウェッヘが録音した)クルシェネクなどは取り上げられる機会が増えているように思います。演奏録音の経済的な理由かもしれません。

いずれにしても、1982年頃出現したCDの時代のよさと悪さが、開花していきました。少量多品種のプロダクションは、マイナー作品作家に日を当てる効果を、CDの簡便な複製と効率化によって録音される音楽そのものの価値がレコード時代とは比較にならないほど、下落しました。誰でもどんな内容でも、150枚ほどの購売能力でCDデビューできるようになり、レコード時代の選別の篩はなくなりました。ipod以降ではCDのようなディスクそのものがクラシック特有のものになりつつあります。市場原理とは無縁に、意義意味、質の高い作品が取り上げられる機会も増えたので、素晴らしい演奏に出会うことも増えたと考えられます。大手とかメジャーといわれるところの崩壊から、ライブへの回帰も並行して進んだように思います。2010年代でも、取り上げられた演奏家は、物故者を除いてほどんどが現役活動中かと思います。「発表の場」が変化したということなのでしょう。

ところで、ジュステ盤収録のシャルパンティエの若書きの、イタリアスタイルのルソンがわたしの生涯を通じて最もお気に入りの1曲になり、今もバロック音楽、ひいては西洋のクラシック音楽全般を楽しむ源になりました。この1曲との出会いがなければ、こうした記述も一切していなかったでしょう。

応募の便りが下記。偉そうに、という具合です。しかし、「歌をなくした日本人」のなくした歌を取り戻す作業、という骨子は今も判らなくはありません。日本人としてなくした様々な歌を取り戻す、「再発見」は今も続けていますから。

音楽の友社「レコード芸術」編集部
私のディスクライブラリー係殿
ルネサンス・バロックを中心にした嘆き悲しむコレクション
その中の「ルソン・ド・テネブル」コレクションが自慢です。
レコード屋に通い始めた頃、ある人からレコード捜しを頼まれました。
それはビクトリアのレクイエム。しかも新しい録音らしい、ということ。結局、その正体は、今や押しも押されもせぬ人気グループになったタリス・スコラーズでした。
ミイラとりがミイラになって、すっかり合唱音楽のファンになりました。
時期は、ちょうどレコードからCDへの過渡期でマイナーレーベルが珍しい作品の紹介を盛んに始めた頃だったと思います。
そうして、いろいろなルネサンス期の声楽曲を聞いていくうちに、声楽曲の音楽史やレパートリーに占める位置や割合が、じつに多いのに驚きました。こりゃあ一生飽きずに暮らせると思いました。
同時に、レクイエムというジャンルに興味が湧き、同詞異曲の楽しみを知りました。歌詞対訳はひとつで充分ですし。
実際には華やかで明るいレクイエムもあるのですが、いくつか聞くうちに、考えが広がり、「嘆く」「悲しむ」という感情の歴史を辿れないか、と思うようになりました。
その連想から、「スターバト・マーテル」を聞き、「涙」を聞き、「トンボー」を聞き……。
あるときミュジフランスというエラートの新シリーズの中から、クープランの「ルソン・ド・テネブル」を聞きました。これは現在に至るまでとても大切な最も好きな曲のひとつになりました。
それ以来、数はたいしたことはないと思いますが、先日数えてみたらいろいろな作曲家の「ルソン」が、12種になっていました。できればそれをご紹介したいと思います。
クープラン/ランベール/シャルパンティエ4種/フィオッコ/スカルラッティ/ゼレンカ/オムニバスなどです。

レコード芸術編集部
私のディスクライブラリー係殿
前略
先日電話でお話しのあったリストを送ります。
ルネサンスや現代作品も勘定にいれると21種ありました。
「預言者エレミアの哀歌」
ルソン・ド・テネブル 暗闇の朝課の読誦
ローマカトリックの聖務日課で、復活祭の主日に先立つ聖週間の最後の3日間 「聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日」の夜半から日の出にかけて行なわれる朝課と賛課を合わせた時課の典礼。17世紀のフランスでは、習慣で前日の夕方に繰り上げられていた。よって同じ聖週間の最後の3日間でも曜日は一日ずれて呼ばれた。「聖水曜日、聖木曜日、聖金曜日」 テキストは「哀歌」の一部分で、トレント公会議1546~63で読誦箇所と読誦定式が公的に定められた。各日にそれぞれ第一から第三までの読誦が行われた。したがってバロック期の哀歌は、9曲で1セットであった。
「聖水曜日の第一、第二、第三
 聖木曜日の第一、第二、第三
 聖金曜日の第一、第二、第三」
このグレゴリオ聖歌の音形トヌス・ラメンタティオーヌムを1662年頃ランベールが当時の世俗歌曲の様式に則って装飾を加えたものが現存する最初期のもの。これから「ルソン・ド・テネブル」がひとつの形式名称になる。
ただし、「哀歌」自体は、それ以前にもある。
a ルネサンス期の多声のモテット
b 同じバロック期でも編成が大規模なモテット
c フランス以外の地域のカンタータ
d 現代の作品
それでも、何らかの形で聖歌が基になっている。
ランベールの作品は、聖歌の装飾といっても差しつかえないものだが、クープランになると歌詞だけ同じのほぼオリジナルの作曲になる。プロテスタントでは受難曲に相当すると考えられる。
勤め先がクラシックな環境には恵まれました。
ちょうどレコードからCDへの過渡期で、今にして思えば買わずに聞ける幸運だったといえます。ある程度いろいろ聞いてみて、「東京の夏」音楽祭でラモーのオペラバレ「ゼフィール」を観たとき、自分は何をしてるんだと、思いました。音楽を楽しむことはよいけれども、聞いてる自分は何物か。音楽的なルーツはどうなっているのか。
ヨーロッパの古い音楽を、日本人の自分が聞いている、そのことの意味は何か。
あえていうなら、「日本茶の文化がありながら、なぜコーヒーや紅茶を輸入して飲むのか」と同じ疑問です。
他人の家で遊んでいるうちに、われを忘れて、いつの間にか帰る家がわからなくなった迷子の気分でした。遊び疲れてわれにかえったとき、(私は他人の家で平気で寝てしまったようですが)自分のでない違和感を感じるとでもいうのでしょうか。
感情移入している自分を突然、客観視させられました。
コーヒーをたくさん飲んで、ちょっとお茶がでてくる安心感みたいなものが、音楽にはないのではないか。フランス料理のフルコースの翌朝朝粥定食をたべるみたいな、自分の位置が確認できる観測点みたいなものがないような。いかに日本人が明治以降自分たちの音楽を含む文化を切り捨ててきたか。そんなときに筑前琵琶の山崎旭萃先生を知りました。 日本では、鶴田錦史ばかりが有名ですが、近代琵琶の双璧といえます。それからちょっと琵琶にこりました。琵琶は平家琵琶などにみられるように勇壮な戦記を題材とした語りものです。山崎先生の、一ノ谷を題材にした「青葉の笛」をラジオで聞いてびっくり。それで、それを自分が帰る家にしようと決めました。
それから楽に音楽が聞けるようになりました。
チャンプルーズでもチーフタンズでも たま でも。その後で、ミュジフランスというエラートのシリーズ企画でクープランのルソンを聞いたのです。自分がそれまで考えていたヨーロッパの音楽の世界より、琵琶の世界に近いものを感じました。それから愛聴盤になりました。
ルソンも琵琶も、いわゆるクラシック音楽が世界を席捲し、地域的個性が薄まり平均化してしまったことの対極にある音楽と思います。そして、共に濃い地域性故の共通する感覚を持っていると思います。
それから折りにふれ、CDを見つけては聞くようになりました。ときあたかも、完全にレコードからCDへ時代が変わり、マイナーレーベルが活気づき、個性的なCDが次々あらわれました。古楽復興も極まり、器楽から声楽へその中心が移った時期でした。
一昨年、ある事情から上野学園の大橋敏成先生と知り合う機会に恵まれました。
定期的に研究発表をなさっていて、それが「17、18世紀の歌唱芸術」というもの。ルソンも毎年4月の定期コンサートで取り上げられていました。このときは台東区にすんでいた幸運を喜びました。しかも世界的にみても、とても貴重な3枚のCDを作られた。 様々な作曲家のルソンを曜日毎にアンソロジーにしたもの。それが研究の成果というのですから、驚きです。日本の音大で、その研究の成果としてCD製作などほとんど例がないのではないでしょうか。(これもCD故実現したのかも知れませんが)しかしながらレコ芸で特選続きの名盤揃いときているのですから。ずいぶんと友人たちに配ったものです。
さて日本人とって、宗教声楽曲は規模が小さくなるほど縁遠くなるようです。かならずしも宗教声楽曲とはいえないようなグノーやシューベルトのアベ・マリアにしてもが日本人にとっては、「名曲」というジャンルにはいるといえます。バッハにしても、マタイ、ヨハネなどの大曲はやはり「名曲」で、小さな歌曲やモテットなどは特別視されているのではないでしょうか。何が日本人を遠ざけるのか。
「クラシック=名曲=誰にでもわかる普遍的なもの」というような図式。
本当にいいものは、ただ見たり聞いたりするだけでもメッセージを伝えることができ、感動できるものであらねばならない、したがって、何か専門的知識教養を必要とするものは、一般には向かない。確実な名画の並ぶバーンズコレクションは長蛇の列ができるが、後期ゴシックの木彫「聖なる形」展は閑散としている。もちろん長蛇の列を期待はしないし望みもしないが、原点をしろうとする人がもう少しいてもいいのではないか。
理解不要なのがすばらしく、理解に苦しむ、または労を費やさねばならないものは、難しいというわけです。しかし、今や時代は変わり、図像学も普及し音楽にも様々な影響を及ぼしている。テレビで森洋子や若桑みどりが講義する時代になりました。
それだけヨーロッパに関する基礎教養も多彩豊富になったといえます。その結果、隠された意味を探る、背景を読み解く、という研究が一般化しました。
たとえば映画「めぐり逢う朝」には、ボージャンの絵が登場します。(小説のほうがよくわかる)伝統として培われ、表面には現れにくい、教養としての、または周知の事実としてのキリスト教は、影響が大きい割には、敬遠されてきました。特に日本人には、理解不可能の難しい領域と見られてきたのです。
カヴァイエというピアノ教師の本に、実はヨーロッパの人間もつい何十年か前のことですら、知らないことだらけ、ましてや300年前の音楽にいたってはいわずもがな…云々という言葉をみつけて、ちょっと安心した覚えがあります。日本のピアノ科の学生に対して、バッハのサラバンドを課題にしたとき、バッハのサラバンドと名がつく鍵盤の曲をすべてさらってくるように薦めた。ところが、なまじ楽譜が読める(音譜をなぞる)だけに、先生の追加課題の意味がとれない。その理由として、発せられる言葉です。
一安心したものの、では日本人はどうすればよいのだろう。
明治以降に過去をきれいに捨てた日本人はヨーロッパの音楽のすべてを受け入れられるのだろうか。答えは、小島美子の「歌を忘れた日本人」という言葉が象徴しています。 バツとして歌を歌わせるという習慣があるのは日本だけ、という小泉文夫の言葉にも。カラオケも第九も結構。少しずつ歌を取り戻す作業が進められているようです。その中で、もう一歩前へ進めるならば、より探求心を逞しくし、ちょっと難しい領域に顔を突っ込んだっていいのではないでしょうか。もっと地味な音楽、難しい音楽を聞きましょう。CDで手軽に西洋音楽史を辿れるようになった今こそ、音のよさ云々、機械云々ではなく、過去の名演でもなく、聞いた音楽そのものをネタにして、考えたり推理したり、クロスワードしたりして楽しめるときがやってきたと思います。
ルソンなんて、専門家中の専門家でしかもちょっと変わった人ででもなければ、こんなに手に取るように資料が集まるものではなかったろうと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?