バロック音楽の実演を聴く「コープマンのなにわ長調ミサ」2018年9月

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木立を抜けると「コーヒーは黒い魔女」と「蛮蛮」。今夜のシンフォニーホールは、トン率いるアムステルダム・バロック・オケ&合唱のバッハ。
なぜかコープマンには縁があります。ヘンデルの「メサイヤ」、モーツァルト「レクイエム」。
前のめりに突進する演奏に惹かれた時期がありました。
コープマンは徹底してバロック音楽に対して情熱をもって取り組んできました。好感。そして、その録音の多さには驚きます。
さてプログラム。
なぜ小フーガト短調が冒頭に置かれるのかよくわかりません。ちょっとサービス過剰な気がします。
演奏者は手練れのものたち。100回以上ロ短調ミサを演奏した演奏者たちというのも、まあ珍しいのでしょう。声楽陣の向上目覚ましく。器楽も同様。おそらくはハーツェルツェットのフルートも100回なのかしら。フルートソロは立ちあがって演奏。終わると隣席のポンセルが譜面台を下げてくれます。100回も演奏していると起立着席まで見事に。
ただ、わたしには雑に聴こえる節もあります。
合唱の声部編成の配置替えを考慮して、キリエからクレドまでを一気に演奏。休憩を挟んでサンクトゥス以降を。とにかく、畳みかけるように途切れなく演奏を進めていきます。
隣席のご婦人が声をかけてきます。わたしは去年いずみホールでアルトパートを歌った、と。歯切れ良いテンポの合唱の歌いっぷりに感心しきり。バスの人たちはあんなに早く歌えない、とか、自分の担当パートを男性が歌っているとか。
大阪のクラシックファンは人懐っこく、みな熱心に聴きます。
コープマンの明朗快活さが大阪と相性いいかも、と感じつつ、そういえばこのミサ曲、冒頭がロ短調なので「ロ短調ミサ」といわれますが、内容は「ニ長調ミサ」といってもよいもの。そうか長調のミサと意識して表現するのも悪くありません。冒頭の物々しさで人を惹きつける反面、そのイメージが支配的になり、損をしているのかも。
とはいえ、1700席の会場だから合唱は25、6名でよいか----?コープマンと協力しあうヴォルフはどんな説なのでしょう。
コープマンの手兵は実に指揮者の要求通り歌います。そしてコープマン自身ほぼバロックに身を捧げてきました。貴重な「マスター・オブ・バロック」といっていい。バッハだけでなくブクステフーデまで完遂している、シュッツやモンテベルディは少ないかもしれませんが。
コープマンのバロックが横溢しているのですが、何か「過剰」に聴こえます。彼が昔、反旗を翻したのは20世紀前半の「厚化粧」なロマンでした。化粧で見えなかった「素顔」の美しさを求めました。コープマンの現在は化粧はしていないが「整形」されたかのような「素顔」の好ましさであって、いつの間にか「素顔」でなくなってしまったかのよう。考えてみれば、素顔は齢を経るとシミやシワが増えて、それを整形して若返らせるのか、どんなに齢を重ねても飾ることを忘れない美意識を維持し、洗練の努力を続けるか、の違いのような。
久しぶりにライブの愉悦を大いに味わったのですが、あえて例えるなら、立派なきちっとしたフランス料理を味わったのですが「俺のフレンチ」に入ってしまったのかもしれない、という風。コープマンは決して「俺のバロック」なんかではない、それは理解しているのですが。

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