「蓮實節」炸裂、見るからには本気で見ろよ

すべて賛成します。わたしは元旦ファーストデイはデブゴンを観ました。残念ながらキメツの刃は観に行く気がしませんでした。竹中直人演ずる悪徳刑事に天罰が下って溜飲が下がりました。久しぶりに東京タワーに登ってみようと思いました。アン・リーの父親もののニューヨーク。「フランティック」のパリ。わたしは普段、自分が不慣れな土地にやってきた外国人だと感じます。その土地の人たちの人情によって活かされていると感じます。

1時間45分でまとめろよとわたくしは思います

例えば、三隅研次監督の『座頭市血煙り街道』(1967)の最後に勝新太郎と近衛十四郎が対決する場面で、白い壁がずっと伸びていき、そこに突然降ってくる雪の濃さといったようなものに驚ければ、それに越したことはない。
そういう場面に驚き、その驚きを安易に自分で納得するのではなくて、自分はこんなことに驚いていいのかなというところまで行ければ十分だと思います。その葛藤の末に、「よし、これに驚いた自分は間違ってはいない」と思えるかどうか。
なぜわたくしたちは映画を見るのか。映画など見なくたって、人類は生きていけるわけです。にもかかわらず、皆さんの生活次第では「見る」ということが決定的な行為になるのです。
「救い」を求めて映画を見に行ってはならない。似たようなニュアンスの言葉に「絆」や「癒し」などもありますが、そんなもののために映画ができたわけではありません。
今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。

こんな映画体験のように、音楽を聴き、ご飯を食べ、ふらりと出かけてきました。残酷な体験、ずいぶんしましたな。早く煙になって消えていきたい、ものです。


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