「一日に三回ドトールに行った」ら

詩の恐ろしさを知りました。
「私も毎日が苦しかった時、ほとんど無意識に奇妙な逃げ道を求めたことがあった」
「一見小さなダメージの中に、すべてを棒に振りそうな危うさの芽が潜んでいるんじゃないか」
「小さなダメージの中に、底抜けの無益さが表現されている」
「生きることの主成分のような無力さを感じて、命のやばさを味わいたくなる」
それが、「一日に三回ドトールに行ったじぶんのことをだめだとおもう」。
1日3回、もしブレンドコーヒー(S)なら、250円3杯で750円かかります。この「逃げ道」「無益」「無力」は高くありませんか。
わたしの記録90日に1回のドトールくらいなら、25条の許容範囲かしら。

1990年、京大出の栗木京子の短歌。
「天敵を 持たぬ妻たち 昼下がりの 茶房に語る 舌かわくまで」
医師の妻として専業主婦をしながら、「逃げ道」「無益」「無力」のようにも読めます。

果たしていくらまでなら「逃げ道」「無益」「無力」に使ってよいものやら。
ところで、「言葉季評」の作者が話題にする、5万円のダイヤは、2016年故安部元首相の「主婦のパート25万円」発言を思い起こします。

「言葉季評」 歌人 穂村弘さん
朝日新聞2023年4月6日

(前略)

 そんな時、彼女はたまたま目についたダイヤモンドに見えない救いを求めたのかもしれない。

 だが、それは問題の本質的な解決からは微妙にズレていると思う。一種の逃避的な行動というか。本人もそう感じたから、ダイヤは一回も身に着けられないまま、どこかに紛れてしまったんじゃないか。

 でもなあ、と思う。この流れ、わかる気がする。ダイヤモンドではないけれど、私も毎日が苦しかった時、ほとんど無意識に奇妙な逃げ道を求めたことがあったから。

 こんな短歌を思い出した。

一日に三回ドトールに行ったじぶんのことをだめだとおもう 古賀たかえ

 毎朝の習慣として決まったカフェに行く人はいるだろう。一日に2回ドトールに行くこともあり得る。でも、一日に3回となると次元が変わってくる。明らかに最善の行動とは思えない。無意識の逃避めいた危うさを感じるのだ。本人もそのことに気づいている。だから、「じぶん」のことを「だめ」だと思ったのだ。

 こんな短歌もあった。

味のりを5袋ぐらいたべてから自分がまずい状態と知る シラソ

 「味のりを5袋」に絶妙な駄目感が宿っている。ポテトチップスを一袋食べてしまった時なども後悔を覚えるけど、何かが違う。さらにやばいのだ。

 駄目感になぜか惹かれ、共感する 実は、私にも同じ体験がある。そもそも味のりは、あまり単体で食べるものではない。でも、ポテチよりはヘルシーな気がして、つい手を出してしまった。ところが、食べ始めたら止まらなくなって、気づいたら何袋もいってしまったのである。こんなことなら、最初からお握りを一つ食べたほうがよかった。

 本人もわかっているのだ。そんな「自分」が「まずい状態」だと。そこがドトールの歌の「じぶん」に似ている。

 通販の5万円のダイヤモンドと一日に3回のドトールと味のり5袋は、ばらばらのように見えて、どこか共通の匂いを感じる。いずれも犯罪行為などではないし、飲む打つ買う的な振る舞いとも違う。人生の大失敗でも致命傷でもないのだ。にもかかわらず、その一見小さなダメージの中に、すべてを棒に振りそうな危うさの芽が潜んでいるんじゃないか。

 ポイントは自分というものを見失っていることなのだろう。本当にやりたいことやるべきことから、無限に遠いところで今を生きている。これでは「だめ」で「まずい状態」なのはわかる。でも、どうしたらいいのかはわからない。そういうことって確かにあると思うのだ。

 世の中にはコストパフォーマンスに関するアドバイスや賢明なライフハックがあふれている。でも、私の心が本当に求めているのは、そういう有益な情報ではないらしい。

 今回引用した短歌は、その逆なのだ。ちょっとした振る舞いの、小さなダメージの中に、底抜けの無益さが表現されている。その駄目感になぜか惹(ひ)かれる。自分だけじゃないんだと思って、もっと見たくなる。生きることの主成分のような無力さを感じて、命のやばさを味わいたくなるのだ。でも、妻のダイヤモンドを見るのはちょっと怖いけど。

ほむら・ひろし 1962年生まれ。歌人。著書に歌集「シンジケート[新装版]」、エッセー「鳥肌が」、評論「短歌の友人」など。


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