笑うバロック展(221)  スプレツァトゥーラ

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1992年第8回<東京の夏音楽祭>のテーマは、「イタリア----声と響きの源流」でした。ルネ・ヤコブスは手兵コンチェルト・ヴォカーレを率いて来日、ソロ、マドリガーレ、オペラを披露していきました。1992年はこの音楽祭の最高の収穫年でした。
下記のCDは、トラジコメディアの名盤です。1990年頃偶然見つけた「わが心の王国(?)My mind to me a Kingdom is」がトラジコメディアとの出会いでした。バードのララバイの素晴らしかったこと。コンソートソングの形式をモーリー風のブロークン形式に移し替えて。(彼らのデビューはランディの「オルフェオ」だったかしら)その通奏低音グループの主要メンバー3人だけで作ったCDが、上の「スプレッツァトゥーラ」でした。聞きなれないその言葉について書かれたエッセイがあります。<東京の夏音楽祭>の総合プログラムの中の一文です。

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スプレッツァトゥーラ----バロック歌唱の形而上学(大橋敏成)

「バロックの歌い方は今日のそれとどう違うのか?」とは自然に発せられる問いに違いない。この春(1992年)、古楽界の総力を挙げて日本の「モンテヴェルディ祭り」が催されたのだが、そのひとつを聴いたある声楽家の感想が「パヴァロッティを生んだイタリアだ。あんな声であったわけがない」であったという。これが世の声楽教師の批判ならば理解できるが、若い声楽家であるときいてさすがに気落ちした。確かに、器楽だと、今日とは異なる楽器の要件やそれを理想的に鳴らす奏法の再考によって、様式の再発見はしやすくなり、明快な成果を生んでいる。それに反して、声楽の楽器は人間の中にあり、それは何百年も変わっていないのであるから、この「対抗(カウンター)古楽」声楽家の感想も、説得力ある説明なしに無視するわけにはいかないだろう。
 奇妙なことに、昨今の古楽界では、かつては錦の御旗であったAuthenticityという言葉の使用は極度に警戒されている。中には明らさまに、これはもう「レコード会社の宣伝文句の中でしか意味を成さない」とか、「我々はこれ以上、演奏のAuthenticityについて議論する必要があるだろうか?」とかいう人まで出てきた。そして別な視点から音楽のAuthenticityに迫ろうとする動きも活発になってきた。そんな時に聴いた一枚のCD≪スプレッツァトゥーラ Sprezzatura≫は、当時の知識人たちの精神、趣味、態度などに迫ろうというバロック音楽演奏の新しい気運を暗示する意味深長なものだった。そこでは撥弦楽器とガンバ、リローネという三人組が生き生きしたしかし気高いバロック音楽精神を謳いあげている。
CDのタイトル”Sprezzatura”は、ウルビーノの宮廷文人カスティリオーネB.Castiglioneの書いた≪宮廷人Libro del cortegiano≫(ヴェネチア1528年)に端を発する言葉で、”Grazia”(優雅さ)と並んで16世紀の貴族の生活態度、美意識を表す「標語」のようなもの、「自信に満ちた人物の意図的な無頓着さ」「さりげなく振る舞う態度」「さりげなさ」という意味の言葉だという。この本は16世紀の間に50以上も版を重ねたらしく、かの≪アマリッリ麗し≫で誰もが知っているカッチーニG.Cacciniの歌曲集≪新音楽集Le Nueve Musiche≫の序文で、彼らが「音楽における高貴なスプレッツァトゥーラをもって----」とこの言葉を引用した時、それが彼の新しいマドリガーレの音楽構造のさまざまなたたずまいや、歌手の態度を表現する最適な言葉であることを、同時代者たちは察知したに違いない。
このたびのルネ・ヤーコプス氏との対談(≪マリクレール≫誌7月号)で船山信子さんが引き出してくれた彼の歌手としての姿勢、「自らとしか向かい合わないナルシストの歌手----」に我が意を得た。筆者は古楽を志す声楽家たちに次のように助言してきた。「歌は彫刻のようなものだ。自らの内側に向かって完成させ、聴衆をして一巡せしめよ」と。歌手は言葉の感情を、大切なシラブルにつけられた装飾音形を完璧に歌うことによって、すなわち純粋に音楽的手段によって表現しなければいけないという過酷な仕事を課せられている。この細部の綿密さを完成させてはじめて、録音をとおしても感情を聴衆に伝達できるのである。聴衆に働きかけないのではない。コミュニケートの仕方が違う、「知らしむべからず、依らしむべし」なのである。18世紀を代表する声楽教師マンチーニG.Manciniはこれを別な視点から「声は、何かを表現できるものであるとしても、楽譜に書かれた旋律と、歌詞を歌うことしかしないものである。In genere le voci , anche se adatte all’espressione , non possono esequire che il canto di note e parole 」と言っているが、この言葉ほど、この時期の歌手の歌唱芸術にかける真摯さを言い当てた言葉はない。これは、全く異なる美学で情念を表現しようとした、ヴェリズモへの道を辿る19世紀後半以降の歌唱芸術とは際立った対照をみせている。



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