笑うバロック(105) 簡単には言い表せない

1977年セオン・レーベルで、レオンハルトたちが録音したブランデンブルク協奏曲。
そこにレオンハルトの「オリジナル楽器による演奏について」という一文が翻訳されています。翻訳がバロックに感じますが、わかりやすく意訳するのを避けたのかもしれません。講演録が本になるアーノンクールと違って、レオンハルトは発言が少ないのですが、慎重深長な文を書く人なのでしょう。

オリジナル楽器による演奏について
グスタフ・レオンハルト/訳:徳丸吉彦、渡辺千栄子

 説得力があれば、その人の演奏したものは正統的な印象を与える。自分で正統的たろうとすれば、決して説得的にはならない。まったく一般的にいって、ある偉大な精神とその時代のもつ思考の世界の内に没入しようとする演奏家だけが、それも、適切な技巧をすでに習得し、また、才能の神秘を自身でももっている場合にのみ、真なるものと純正なるものとを呈示しているという感銘を呼びさましうるのである。

 しかし、音楽それ自体が固定化を拒むために、一つの音楽作品の完成が、決して正統的なのではない。音符ではなく、鳴り響く音か音楽だからである。その上、作曲家は彼の再生物のそれぞれに、また新たな正統性を賦与するのである。
 正統対非正統の対立(これとて、だれが一体判定できよう)よりも、私にとって重要なのは、言葉では捉えにくい問題である(しかし、[理性にわからぬものを]心が説明する、こともある aussi le coeur a ses raisons) が、それは、芸術的な質の問題である。これについては、聴衆に、つまり、音楽と同じように変化している聴衆に、判断を委ねるしかない。( この変化が同時には起こらず、また、変化を先導するのがいつも音楽家の側であるとは限らない!ということから、ある種の短絡がしばしば生じている)。

 楽器編成にもとづいて、この録音が「決定的」なものとか「正統的」なものとして、折り紙つきにならないように、私は願っている。この録音は、歴史的な研究の重要性を認め、それを自分たちの仕事の一部だと考えている音楽家たちが、これを「特殊な」ものとして感じることもなく、まして、それを目立たせることもなしに、演奏したものである。また、歴史的な楽器の使用も、異常なものではなく、すくなくとも、演奏者にとっては、そうである。聴き手の中でも、かなりの方には、響きはまだ耳なれないものであるかもしれない。しかし、もっとなれて、変化に「同調した」方にあっては、聴き手の方たちも、さまざまな楽器の間のバランスが今やまったく自然になっていること、後の時代の楽器の平坦さにくらべると、ここでは、豊かさが音の陰影の多様さと木管楽器の音高の繊細さで表われていること、また、ここでの弦楽器が、他の音楽には適している後の時代のものにくらべると、もっとやせてはいながら、もっと内容のある響きの組み立てをもっていることを、認めてくれよう。耳は、人か思い勝ちなよりも、早く慣れるものであり、それで良いのである。そうすれば、楽器は演奏者と聴き手にとってふたたび、文字通リ音楽に仕える「道具」になるのであリ、すべての専門家や愛好家たちは、絶えす新たに驚嘆しながら、ヨハン・セバスティアン・バッハの中庸に対する確かな感覚とはかり知れない独創力に夢中になってしまうことかできるのである。

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