先生との出会いを誇りに思います

山下旭瑞先生が2014年12月31日に永眠されました。昭和4年(1929)のお生まれなので85歳でしょう。
CDにあるプロフィールは次の通り。

山下旭瑞(やました きょくずい)
昭和4年10月27日、福井生まれ。
6歳より筑前琵琶を故・平田旭舟ならびに故・田口旭隆に師事。11歳で初代橘会宗家より「旭瑞」の雅号を受ける。
戦時中は琵琶を中断したが、戦後再開。昭和36年平田旭舟の没後もしばらく中断する。
昭和51年より、山崎旭萃に師事。昭和58年、2代目宗家より師範の免状を受ける。シカゴ、スイス他の海外公演も多く参加。

先生とはファンとして出会いました。山崎旭萃先生が源平ものや御伽草子の頼光ものをよく演じられたのに対して、山下先生は、戦国期をテーマにしたもの、いくつかの時代を通じて歴史ものをよく取り上げられたと記憶しています。
山下先生は、戦争中までの琵琶の語り芸の果たした本筋がレパートリだったように思います。
節回しは山崎先生が関西の方で義太夫や浪花節のように太い筆で草書したような豪壮さがあったと思いますが、山下先生は都々逸もお得意だった様子で、良い意味の関東の語り芸の洗練と瀟洒な雰囲気がありました。近代の琵琶は弾き語りが基本ですが、山下先生は声もさることながら、琵琶の弾奏も素晴らしく、山崎先生が口を極めて褒めておられました。
以前直にうかがった話では、幼少期から足が不自由で、生活に困らないよう芸を身につけました、と。
全く個人的な見当はずれな見立てをすると、わたしの中では山崎先生が近衛十四郎で、山下先生は大友柳太郎なのです。
筑前琵琶はその成り立ちが、まず西方から起きて、明治期に関東で盛り上がりましたが、筑前琵琶が橘会と旭会の流派に分かれ、現在の橘会の家元が琵琶奏者ではなく、2006年に山崎旭萃先生が亡くなられて、山下先生の筑前琵琶の中に占める位置は大変重いものがあったと推測されます。橘会は旭萃、旭瑞門下が、各地でがんばっています。ネット検索してこのふたりに師事でヒットの多いこと。若手でおそらく検索数が多いのは女性雑誌などでも取り上げられたことのある田中旭泉さんあたりでしょうか。もう一方の旭会は上原まりさん(宝塚卒、母親は旭会の重鎮だった柴田旭堂)が普及に努めています。

山下先生は、わたしなどのようなまるでご縁のないいちファンに対しても大変面倒見がよくて、1992年の国立劇場で鶴田先生のおそらく最後の発表会が開かれた折お席を確保してくださったのを覚えております。昨年一度だけ電話で声をお聞きして、もう一度会っておきたいと感じたのですが、臥せっているところに押し掛けるのを躊躇しているうちに、月日が流れてしまいました。
わたしは不出来なファンで、先生方のように技芸で生き抜くことを知っただけでとても学んでいません。それでも先生方のおかげで、何度でもつまずいて何度でも立ち上がって、結果一歩も前へ進めていなくても終わりではない、そう信じてみようと思います。


2019年1月。
カセットテープの中に、山下先生の師匠、平田旭舟の声をみつけ、まず男性だったことに驚きました。「大正13年旭舟。昭和5年全国琵琶大会に出演、7年橘流最高位階「法穣院」号を許可。筑前琵琶の中で男性的芸風の特異な存在。古式四法琵琶の演奏家でもある。戦後は音楽学者田辺尚雄らの指導を受けた」。男性的な平田師の芸風はなんというか「キップのよさ」みたいな感じで受け継がれていた、そんな気がします。

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2022年1月。

youtubeで、笹川旭凰(詩吟で有名になった笹川鎮江)の琵琶を聴いて、山下先生の衒いのない真っ直ぐな声は、笹川氏の語り口に通じるものがあると感じました。笹川氏は硬質な印象、山下先生はそれにしなやかさが加わった印象をもちました。

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