講座・笑う「いい加減」バロック音楽(2)

第2回「BCイリュージョン」

いい加減ですが、難しくなりました。
今回のテーマはBC(=バッソ・コンティヌオの頭文字=低音・持続の意味 →通奏低音)。

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2-1 [『わかりやすさ』の落し穴]
音楽は「言語」であるといった人がいます。
「言葉ではいいあらわせないものの言語」なのだそうです。昔々、音楽は人間にとって「必要なもの」だったらしい。喜びが言葉だけで足りないとき、ついに拍子をとって踊りだしたり、歌いだしたり、といったことかもしれません。
これでは、やはり「音楽に国境はない」となりそうですが、決して万国共通の言葉でなく、実はこの言葉を越えた表現も、実際言葉が違えば通じ合わないのと同じように、たとえばわれわれが英語を習って英語圏の人々と話すように、学習しないでは得られないものなのです。
「誰にでもわかる」というのは、音楽に関しては、「とても幼稚な」レベルをさすか、さもなければ「みなが学習して理解している高度な」レベルをさすのです。
音楽演奏の行為については、繰り返し練習するというような、とてもスポーツ的一面があります。ただ音楽においては「100メートルで10秒の壁を越える」記録という目に見える形でのわかりやすさだけでは不足です。どちらかというとマラソンの有森選手のように、コースの厳しいバルセロナで銀メダルだったのに、4年後のアトランタでは前回の自己記録を更新してもなお銅メダルという状況で、しっかり自己評価している、ちょっと冷めた目で複雑な状況を理解することが必要になります。
有森選手はスポーツにも国境があり言葉の違いがあることを知っていたと思います。アトランタではエチオピアのロバ選手に抜かれてしまいました。もちろん、だから理解しあえないといっているのではありません。「走る」という行為を越えた「言葉」があり、それは記録や勝敗といったわかりやすさの陰に隠れて見えにくいのです。
バロック音楽の見えにくい部分はどこでしょうか。
今回はバロック時代特有の伴奏である「通奏低音」を軸に聞いてみましょう。

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2-2 [傑作中の傑作バッハのシャコンヌ]
いきなり、バッハの無伴奏バイオリンのためのシャコンヌです。

(トラック1)バッハ作曲「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番二短調BWV1004~シャコンヌ」 レイチェル・ポッジャー(バイオリン)

長い曲なので飽きたら途中で次にいってください。
無伴奏といえば「バッハのシャコンヌ」、シャコンヌといえば「バッハの無伴奏」といわれるほどですが、ところでシャコンヌというのは本来どんな曲のことをさすのでしょうか。
舞曲の一種で、踊り歌から始まりました。バッハより少し先輩のフランス・バロックの大家シャルパンティエのお軽い踊り歌シャコンヌも合わせて聞いてみましょう。

(トラック2)シャルパンティエ作曲「何も恐れずこの森に私はひとりできた」 ソフィ・ダヌマン(ソプラノ)レザール・フロリサン

数小節の伴奏メロディを何回も繰り返し、その上に主たるメロディを乗せていくものです。前回の「パッヘルベルのカノン」や「グリーンスリーブスによる変奏曲」も同様の手法です。
バッハはこの主旋律と伴奏部分をバイオリン1挺にやらせました。バイオリンは4本の弦があり、同時に2弦から3弦いっしょに鳴らすことができます。重音奏法とかダブルストッピングとかいいます。その原理を利用して同時に複数の旋律を描かせたのです。だから伴奏の音形も見え隠れしながら常に弾かれています。
バッハのそばには相当な名人がいたのでしょうが、バッハ自身当時にあっては鍵盤楽器のトンでもないビルトゥオーゾ(=名人)ですから、オルガンのように左手と右手のデュエットを足で伴奏するくらいお茶の子さいさい。アクロバチックな曲は特に頓着なく書く人でした。
それを後代の人々は、他のシャコンヌに比べいかにバッハが精神性が高いことか、と評価したのです。ブラームス、ブゾーニといった19世紀のピアノの名人がピアノ用に編曲したり、19世紀を通じてバッハはドイツ音楽の精神的父の座を獲得します。
シューマンなどはバッハの無伴奏バイオリンのためにピアノ伴奏を書いたりします。シューマンにとってはバッハの曲は不完全に見えたのです。それは伴奏というものの形が100年の間に変わってしまったことを意味します。

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2-3 [フランス革命とナポレオン]
では、100年の間に何が起こったか。大きな事件はフランス革命とナポレオンでした。
簡単にいってしまえば、それぞれの地域がそれぞれの言葉で一定の秩序を保った世界を作っていたものを、戦争は具体的に崩壊させました。国境線を消したり書いたり繰り返し、人々は入り交じり、言葉が通じない、ある意味で幼稚な世界になったのです。そこでは目に見えない想像上のものや慣習は価値をなくしました。その中に通奏低音も含まれたのかもしれません。
通奏低音は実際には簡単な低音メロディに添付された数字をコード記号として、実際の音を慣習的に想像し即興で演奏する方法です。
実際どう違うか、バッハを例に聞いてみましょう。聞きどころは両トラックとも最初の30秒ほどです。

(トラック3)バッハ作曲「フルート・ソナタホ短調(BWV1034)~第3楽章アンダンテ」 ペーター=ルーカス・グラーフ(フルート)
(トラック4)同上 バルトルド・クイケン(トラベルソ)

このソナタは、上のメロディは長男ヴィルヘルム・フリーデマンが書いたと推測されています。それに父バッハが伴奏をつけたらしい。
トラック3はスイスの名人ペーター=ルーカス・グラーフの演奏。トラック4は古楽器(木の筒に穴を開けただけのもの)の名手バルトルド・クイケンのもの。

第3楽章は、伴奏から始まります。
(譜例1)「フルート・ソナタホ短調(BWV1034)~第3楽章アンダンテ」

画像1


本来譜面では弦楽器の音の部分しか書かれていません。そこに付された数字の解釈によって実際の伴奏がかわります。担当は鍵盤奏者です。グラーフの方は、しっかりコード進行で低音を補強していますが、クイケンの方はかなりチェンバロ奏者が主張して助奏として上のメロディをつくって弾いています。
バロック音楽には実際に書かれた音符以外にも、隠された音符がかなりあるのです。もちろん主メロディの方でも前回のコレルリのバイオリン・ソナタのような装飾があります。コレルリは装飾例を残しました。その解釈もふたとおり考えられます。
ひとつは、曲は演奏家が完成させるべきものであるが、その模範として書き残した。もうひとつは、あまり勝手なことはやってほしくないから規制をかける意味で書き残した。
ある演奏家は、生徒たちに同じ曲を違う装飾で順番に即興させ、同じ装飾を演奏してしまった者にペナルティを課す、といった授業をおこなったそうです。

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2-4 [ひとりで何でもできる男]
先ほど、バロック音楽には隠された音符がかなりあるのですといいましたが、バッハは、バロック時代には珍しくもっとも楽譜に書き込んだ作曲家でした。
「ベニスの愛」という恋愛映画で一躍名をはせたマルチェロのオーボエ協奏曲は、実は原曲の楽譜は残っていません。バッハがチェンバロ独奏用に編曲して書き残したものから復元されたのです。バッハは他にも同じような編曲を試みてイタリアの様式を吸収し、自分のものにしました。バッハの楽譜に残された独奏オーボエの旋律は、原曲を基に(または誰かの演奏を基に)バッハが装飾したものを固定したと考えられます。だから大概のオーボエ奏者はバッハが書いた装飾メロディを基に演奏しています。
ここではチェンバロ版をハープで演奏したものを聞きましょう。

(トラック5)マルチェロ原曲バッハ作曲「協奏曲第3番二短調BWV974~第2楽章アダージォ」 エドゥアルド・ビュッセンブルク(ハープ)

協奏曲ですから本来ひとりで演奏するべきものではないのですが、どうもバッハという人は何でもひとりでやってしまう癖があります。その究極例が最初のシャコンヌかもしれません。
現代にいたっても基本的に作曲家はピアノという鍵盤楽器の前に座って作曲します。コンピュータを使う人でも鍵盤を接続しているものです。だから最初のできあがりは鍵盤で演奏可能なものになります。そこからオーケストラ用に直したりしていくわけです。その伝統はどうやらバッハの時代あたりに端を発していそうです。
今度はトリオ・ソナタという名前のオルガン独奏曲を聞いてみましょう。

(トラック6)バッハ作曲「トリオ・ソナタ変ホ長調BWV525~第1楽章アレグロ・モデラート」 トン・コープマン(オルガン)

同じ曲を4人の演奏家が分担して名前通りのトリオ・ソナタとして演奏されたものも聞きましょう。

(トラック7)バッハ作曲「トリオ・ソナタト長調BWV525~第1楽章アレグロ・モデラート」 パラディアン・アンサンブル(リコーダー・バイオリン・リュート・ガンバのグループ)

比較してみると、オルガンの右手がリコーダー、左手がバイオリン、足を低音楽器のビオラ・ダ・ガンバが担当していることがわかります。しかし、ここではもうひとりギターのような撥弦楽器の爪弾き音が聞こえます。この曲ははじめからオルガン独奏曲ですから、低音には記号はついていません。
(譜例2)「トリオ・ソナタト長調BWV525~第1楽章アレグロ・モデラート」

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つまり、演奏グループが、当時の習慣上こんなであったであろうという、数字のコード記号を想像して補い、実音化したのです。
前例でもわかるようにバッハはむしろ、通奏低音については引導を渡す役回りなのです。同様の手法でトリオ・ソナタをデュエットに編曲したりするのですが、遂には、チェンバロとビオラ・ダ・ガンバのための二重奏曲を編曲ではなく、作曲してしまいます。今度は、その曲をトリオ・ソナタに編曲したものから聞いてみましょう。

(トラック8)バッハ作曲「バイオリンとビオラ・ダ・ガンバのためのトリオ・ソナタト短調BWV1029~第1楽章ビバーチェ」 ベロニカ・スクープリク(バイオリン)ヒレ・パール(第1ガンバ)バルバラ・メスマー(通奏低音ガンバ)リー・サンタナ(リュート)

次の演奏は、同じ曲が、バイオリンをチェンバロの右手に置き換え、複数楽器を使って厚みのある通奏低音をチェンバロの左手のみに置き換えられたものです。実際にはバッハはトラック9を作曲したのです。ここではチェンバロの強弱の幅の狭さを補う意味でなのか、当時最新モデルだったピアノ(といっても現代からみると最も古いタイプですが)を使用しています。バッハの晩年にピアノは開発されていました。

(トラック9)バッハ作曲「ビオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタト短調BWV1029~第1楽章ビバーチェ」 ビットリオ・ギエルミ(ガンバ)ロレンツォ・ギエルミ(ピアノ)

この形式はさらに時代を下るにしたがって採用され、遂には通奏低音という形式はなくなっていきます。ちなみにモーツァルトが作曲した初期のバイオリン・ソナタを聞いてみましょう。

(トラック10)モーツァルト作曲「バイオリン助奏付きチェンバロ・ソナタ二長調Kv.29~第1楽章アレグロ・モルト」 ピエール・アンタイ(チェンバロ)フランソワ・フェルナンデス(バイオリン)

特に伴奏の動きに注耳してください。単純なタタタ・タタタになっています。もはやメロディというよりはリズムを刻むドラムのようです。特徴は、もはや特にバイオリンがなくても曲になっていることです。

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2-5 [楽器紹介]
さてここで遅ればせながら、通奏低音の楽器を紹介しておきましょう。
チェンバロや小型オルガンのような鍵盤楽器とチェロかビオラ・ダ・ガンバという低音弓奏楽器の組み合わせがスタンダードとされています。
しかし、古楽器復興から現在までに別な楽器もエントリーされることが増えてきました。その代表がギターやリュート属、ハープといった撥弦楽器です。
ここで通奏低音のための楽器だけをメインメンバーとするグループ「トラジコメディア」の演奏を聞きましょう。

(トラック11)ヘンデル作曲「イタリア語による二重唱 Qual fior che allalba ride」 トラジコメディア(リュート、ハープ、ガンバのアンサンブルグループ)

リュート、ハープとガンバだけなのですが、撥弦楽器のプツプツとした音ながら、実によくつながって歌っていると思います。それでいて音の個性も際立っています。ここではガンバまで弦を爪弾きしています。3つの楽器のプツプツした音の区別がつくでしょうか。かなり微妙な個性かもしれませんが、ヒントは開放弦の数が大分ちがうことでしょう。ちなみにいちばん少ないガンバは7弦、リュートは13か14弦、ハープは40本くらいか……。1つの弦を弾いても周りで共鳴して一緒に震える弦があるのですが、その数が多い少ないでひとつの音にもちがいがでてきます。
現代であれば、それぞれに独奏楽器として活躍するのですが、バロック音楽を演奏するためにはプラス伴奏としての通奏低音を勉強する必要がでてきます。次の項では、その代表格であるチェロを例に考えてみましょう。
チェロは現代では独奏用、オーケストラなどの中でアンサンブル用に使われますが、ことバロック音楽に関してはさらに通奏低音としての役割もしらなければなりません。

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2-6 [通奏低音のマジック]
唐突ですが、宮崎駿のアニメとビバルディは接点があります。
映画「ナウシカ」で使われた「虫愛ずる姫」というオームの幼虫をかくまった幼少時の回想シーンの付曲があります。それがビバルディのチェロ・ソナタイ短調RV43の第2楽章とよく雰囲気が似ています。通常、急速楽章なのですが、ビルスマがやや遅めに弾いたトラック12のを聞いて、アッと思ったものです。

(トラック12)ビバルディ作曲「チェロ・ソナタイ短調RV43~第2楽章アレグロ」 アンナー・ビルスマ(チェロ)鈴木秀美(伴奏チェロ)

ビバルディのチェロ・ソナタは全部で9曲あります。
わたしは個人的にバッハの無伴奏チェロ組曲全6曲(これはこれで絶対に聞く価値があります)に比肩すると思います。もっと現代のチェリストは取り上げてよいだろうに。わたしがアマチュア・チェリストなら、ビバルディの9曲だけで一生終わっても構わないと思うでしょう。
バッハとビバルディの違いは簡単、伴奏の有無です。
通奏低音の楽器編成や数字付低音の実音化の方法が多様化した現在、チェリストは、バッハが無伴奏作品に与えた対位法のテクニック(主たる旋律に対する伴奏の旋律が単に同じ音の繰り返しでなく独立性の高い動きを繰り広げること)を、ビバルディでは通奏低音を含めた演奏グループの組織作りに費やさねばなりません。その上、バッハなら無伴奏ゆえの超絶技巧から、なかば免除された主旋律の即興を、ビバルディでは縦横に発揮しなければならないのです。
つまりバッハならひとりで芸術家としての自己満足に浸れるが、ビバルディはそれを許してくれません。臨時に演奏グループを結成し、互いにコミュニケーションし、ひとつの演奏にまとめあげ、お客様を満足させなければならないのです。
おかしなたとえですが、バッハは焙煎の難しい複雑な味のストレートコーヒー、ビバルディはブレンド作りです。
たとえば同じ曲でも、ある演奏では全員で4名で演奏しています。

(トラック13)ビバルディ作曲「チェロ・ソナタイ短調RV44~第1楽章ラルゴ」 デビッド・ワトキン(チェロ)キングスコンソート

この曲も伴奏から開始されます。オルガンと第2チェロの和音の中にリュートのポツンポツンという爪弾きがブレンドされ、音の海を独奏チェロがたゆたうようです。違う演奏では、基本形とされたチェンバロと第2チェロの3名で演奏しています。

(トラック14)ビバルディ作曲「チェロ・ソナタイ短調RV44~第1楽章ラルゴ」 アンナー・ビルスマ(チェロ)鈴木秀美(伴奏チェロ)オッホ(チェンバロ)

ずいぶん独奏チェロの目立ち具合が違うでしょう。
時に応じては、第2チェロとのデュエットでゆったりした静けさを演出する場合もあります。

(トラック15)ビバルディ作曲「チェロ・ソナタホ短調RV40~第3楽章ラルゴ」 アンナー・ビルスマ(チェロ)鈴木秀美(伴奏チェロ)

またチェンバロのドンシャンにギターの掻鳴らしがリズムを引っ張ったりもします。

(トラック16)ビバルディ作曲「チェロ・ソナタイ短調RV43~第4楽章アレグロ」 デビッド・ワトキン(チェロ)キングスコンソート

チェロは音楽史に登場したときから、ピアノのように独奏楽器としての側面と伴奏楽器としての側面がありました。その両方を勉強して初めてできるのがビバルディなのかもしれません。
バッハの作品中で無伴奏チェロに対応しているのが「マタイ受難曲」のレチタティーボの通奏低音でしょう。レチタティーボは歌うような語るような、どちらかといえば語る言葉が主眼です。
大概、レチタティーボとアリアは組で登場します。

(トラック17)バッハ作曲「マタイ受難曲~レチタティーボ~アリア来れ甘き十字架よ」 クラウス・メルテンス(バス)ビーラント・クイケン(ガンバ)

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2-7 [真似しないこと真似すること]
いまのアリア「来れ甘き十字架よ」は、バス歌手とビオラ・ダ・ガンバのデュエットになっています。こんな場合は「オブリガート楽器つき」の演奏といわれます。このガンバは、キリストがイバラの冠をかぶり十字架を背負わされて、よろめきながら歩く様を描写しています。(オブリガートは描写模写といった意味ではありません)日本人にもこの曲の光景は想像しやすいのではないでしょうか。
「マタイ受難曲」はバッハだけでなく音楽史上の名作中の名作ですが、日本人にとって曲の雰囲気と筋立てがかなり一致する珍しい曲といえます。
通奏低音からは離れますが、最近「JPOP進化論」という本を読んで思ったのですが、日本のポピュラー音楽は歌詞があってないような、少なくともその意味を読解するといったこととは無縁なような気がします。それでいてリズムやメロディ、歌詞の語呂語感といった感覚の部分は研ぎ澄まされいるようです。これは演歌でも同じような気がします。私は、ふたとおりに解釈しています。
ひとつは歌詞を越えて表現される「言葉」が洗練され、より緻密になった。もうひとつは、聞くより感じるが先行し、ある幼稚さに慣らされた。
反対に最近の音楽関係のニュースを聞くところでは、有名な歌手がアンコールで「赤とんぼ」を歌ったとか。それも正確に4番の歌詞まで。どうも単なる媚ではないらしい、日本の近代の音楽がそれなりに評価の対象になってきているのでしょうか。
言葉と音楽のすこし極端な接点を聞いてみましょう。
モンテベルディの「アリアンナの嘆き」の冒頭の歌詞は「Lasciatemi morireラシッアーテミ・モリレ」です。「私を死なせてください」というテゼオに見捨てられたアリアンナの嘆きの歌の冒頭です。

(トラック18)モンテベルディ作曲「マドリガーレ集第6巻『アリアンナの嘆き・第1部私を死なせてください』」 リナルド・アレッサンドリーニ指揮コンチェルト・イタリアーノ

モンテベルディは歌詞の中に含まれる音名はその音であらわしています。つまり「ラシッアーテミ・モリレ」は「ラシ○ミ○レ」となります。当時のヨーロッパの人にとって音を聞いて音名を思い出し、それと語感の似た言葉を連想するぐらいは容易いことでしょう。
NHKの子供向け教育番組に「おかあさんといっしょ」があります。その中に「ドレミファドーナツ」という犬の双子姉弟とゴリラ、レッサーパンダの4匹組の動物が活躍するコーナーがあります。その名も「ミド(犬)、ファド(犬)、レッシー(レッサーパンダ)、ソラお(ゴリラ)」といいます。名前に音名が含まれているものの、その音階では発音されません。
日本でも山田耕筰などは、日本語のイントネーションを守って旋律を書くことが難しいといっていたようです。話し言葉では本来下がるべきところ、西洋音楽の作曲技法上はあがることになるのはよくあることです。それだけ日本では音楽と言葉が遊離してしまったのかもしれません。
動物の泣き声などの擬音は、日本語と英語では、比較してもずいぶんちがうといわれます。最後にバッハの少し先輩で現在のチェコ近辺(ボヘミア)出身のバイオリンの名手ビーバーの動物の鳴き声などを模倣したソナタの一部をききましょう。日本人でもかなり雰囲気が理解しやすいと思います。

ビーバー作曲「ソナタ・レプレゼンタティーボ~抜粋」 ロマネスカ(バイオリン、リュート、チェンバロのアンサンブルグループ)
(トラック19)カッコウ
(トラック20)カエル
(トラック21)ネコ
(トラック22)マスケット銃士の行進

第3回へ続く

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