オペラハウスでオペラ(2011年10月記)

飾りのない簡素な作りは東京文化会館を思わせます。見ようによってはチープかしら。

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「イル・トロバトーレ」
日本のオペラ座にて。
2006年「カバレリア」だけを聴きましたが、高校生の芸術鑑賞に紛れ込みでした。シーズンの正式プログラムは初めて。
さらにヴェルディ初体験です。(ヒラバヤシさまでしたかがヴェルディ協会の勧誘ブースを出しておられました)
序曲なし。いきなり物語に突入し唐突に幕切れ。これがヴェリズモなのかしら。幕間の緞帳に幕と幕の間の省略された筋をつなぐ字幕が映写されます。
なにしろ普段は、まず擬人化された美徳とかが王を讃えるところから始まるオペラを聴いているので、勝手が違います。ただしこのヴェルディ演出は死神役の役者(歌手でなく歌わない役、狂言回しというほどではない)が活躍します。その死神の風貌と象徴的にドクロが映写されたりしてウーファ時代の「死滅の谷」を思わせます。
しかし外人は声がデカイですねえ。いえいえデカイだけでなくインサイドワークもうまい。外人選手を相手にする力道山の気分がなんとなく。

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金曜日のマチネに1800人----そんなゆとりのある人----いるのですねえ----の集まる場所です。ハンブルク在住らしいおばさんたちの会話。ワイン飲みながら英語で携帯に話しかけるスーツのおじさん。エントランスの勅使河原のオブジェの前でポーズをとるおねいさんたち。オペラ座が、純粋に音楽を聴く場ではない、というのをよく表現しています。夜なら背中のあいたドレスのおねえさんを連れたおじさんなんかも、いるかも。

勅使河原某氏の作品がお出迎え。なぜか某マスヒロ氏が聴いていました、と思います。わたしは2階の左翼の階段席。小ぶりなホールなので音は十分聞こえます。今度は、最前列で聴いてみたいです。

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字幕もすっかり定着しました。ただし、字幕を読んでいるとちょっとした演出や「トガキ」を見逃してしまいます。結局、チラシの人物相関図がないと、誰が誰やら複雑です。演出が不徹底というか、不親切なのでいつ頃の時代設定なのか?どこなのか?想像ができず、観ていて視覚からの没入できませんでした。最近のいわゆる斬新な演出は、観客の視覚を演出世界に誘導するのが上手なはずなのですが。
チラシには15世紀のスペインが舞台の原作と。16、17世紀のイタリアの小国という感じ?かの衣装と装置かしら。
日本人でも立派な体格の妻屋さんという方が目立っていました。物語の見せ方(作曲に適した筋の省略の仕方)が、現代の作劇に近いはずなので、この点でも音楽に中断されない物語は「観ている」感覚が強く「聴いた」印象が薄くなります。対立する人物と言葉を同時に重唱させて、グイグイ進行させます。そこが聴かせどころだと想定すると、やや丁寧さが不足です。ソロのアリアも1曲として独立していませんから、聴いていて途中から始まって途中から別な音楽が被さってフェードアウトみたい。意地悪にいえば「リアルなミュージカル」なんて存在しませんから。そう考えると「椿姫」は歌の必然性の場面設定に恵まれていて、劇と歌が上手に融合されているので、名作なんでしょう。
しかし、「死ぬぞ、死ぬぞ----死ぬ」みたいな歌を堂々立派な声で聴いていると、文楽の世話ものよう。後半の幕で主要な歌手たちのノドが温まってくると、声の力に圧倒されました。オケもよく頑張っていた感じ、音だけだと歌手の声に及びませんが、整い過ぎかしら。

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