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笑うバロック展(172)  縁の下にいることが多い小鳥のようなルーシー

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おそらく1970年代後半、写真はアラン・カーティスと。どちらかというと花のない演奏家でしょう。

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バッハは望まれるかもしれませんが、彼女向きではないように思います。でも彼女はいつかからいつかまで、ビルスマ夫人でした。そしてちょっと独特でユーモラスといえる旋律の歌い方が似てないかしら。ビルスマときたら二人の夫人に囲まれてよく演奏していたわけです。内助の功の似た二人。古楽のコンマスとしては、アーノンクール夫人、レオンハルト夫人などいますが、彼女はその意味ではブリュッヘン夫人でした。

1984年テレビドキュメンタリー
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擬音効果にあふれたCDも18世紀オケ活躍時代の産物。かなり早期にバッハもコレルリも卒業していた彼女はバイオリンのユーモラスな面を伝えました。

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ウッチェリーニはイタリア語で「小鳥」を意味するらしいので、うってつけ。彼女の書いたウッチェリーニに関するエッセイがありました。マルコ・ウッチェリーニは、現代作品を開拓し続けるリコーダー奏者、鈴木俊哉氏が選ぶ数少ないバロック音楽のひとつ、として実演に接した経験があります。鈴木さんのリコーダー演奏は、実は下記のジェミニアーニの言葉のとおりではないか、と思います。
ファン・ダールのエッセイを翻訳したのは、おそらく招聘元アルケミスタの代表の方だと思います。情熱のある方でした。活躍されているとよいのですが。

資料 音楽の目的は、ただ耳を喜ばせるに留まらず
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ウッチェリーニの生涯 by Lucy van Dael  翻訳文責:アルケミスタ
「音楽の目的は、ただ耳を喜ばせるに留まらず、様々な情緒を表現し、イマジネーションを刺激し、ここに影響を与え、そして情熱を意のままにすることだ。」(フランチェスコ・ジェミニアーニ、The Art of Playing on the Violin, 1751)

ヴァイオリンの大家マルコ・ウッチェリーニは、エミーリア=ロマーニャ地方の小さな町 Forlimpopoli に(1603年から1610年の間に)生まれた。彼のこの地で神学の勉強をはじめ、後に助祭に、そして後にアッシジ Assisi で聖職につくことになる。ウッチェリーニが、著名なヴァイオリニストであり、アッシジの聖フランチェスコ教会の楽長兼作曲家であったジョヴァンニ・バティスタ・ブオナメンテのもとで音楽の勉強を始めたのはこのアッシジ時代と思われる。ウッチェリーニはその死の直前「遺言」のなかで「私がヴァイオリンと歌唱を完璧に身に着けたのはアッシジにおいてであった」と明らかにしているからだ。

神学の研究を修めたあと、ウッチェリーニは音楽で名を成したいと大志を抱き、エミーリア諸都市の宮廷と教会にポジションを求めると、目出度くモデナのエステ家の宮廷に職を得て「礼拝堂付牧師兼音楽家 chaplain and musician」に任命されている。
ウッチェリーニが、その最初の7巻の作品集を出版したのはこのモデナ時代で ある。そのうち三巻 (作品5,6,8)はヴァイオリンのために書かれている。17世紀のソナタ集では、高音パートについて具体的な指定がないか、いくつかの楽器の選択が示唆されているのが普通だが、ウッチェリーニがここでヴァイオリンだけを指定していることも、当時のモデナがすでにヴァイオリン演奏の伝統が確立した「中心地」であったことを考え合わせると、驚くにはあたらない。例えば “compagnia dei violini”というグループがエミーリア州のフェスティバルやセレモニーに招かれ、演奏していることもわかっている。ウッチェリーニはこの「刺激的な」環境のなか、その超絶的な技術を磨き、聴衆の前に演奏する機会を得ていた。この時代は、ヴァイオリン音楽のレパートリーが整理統合された時代でもあった。ウッチェリーニは、ソナタ、シンフォニア、コレンテ等当時最も発達した形式で作曲している。宮廷の作曲家兼音楽家というポジション柄、ウッチェリーニはエステ家の人々、とりわけ君主フランチェスコ 1世と親しい間柄にあり、作品3と4を捧げている。

ウッチェリーニは、「音楽家、公爵の楽器奏者の長 musico e capo degli strumentisti del duca」として、エステ家の人々に音楽のレッスンも施し、また海外から来賓があったときはヴァイオリン奏者としてその実力をたびたび発揮することができた。中でも1655年にはスウェーデン女王クリスティーナの午前で華々しい演奏を行ったようだ。また、今日でも著名なポジションであるモデナ大聖堂の楽長も務めている。

ところが、1662年にウッチェリーニは他の1ダースの奉公人とともに、宮廷のあらゆる地位から解雇されてしまう。この予想もしていなかった解雇は、公爵アルフォンソ4世の死後エステ家が直面した経済危機に伴うものだと思われる。ウッチェリーニは、職を失うと直ぐに、1665年パルマのファルネーゼ家からオファーを受け入れ、公爵夫人イサベッラ・デステDuchess Isabella d’Esteの招きで、甥のカミッロとともにパルマに移った。イサベッラは、ラヌッチオ1世 Ranuccio I の妻で、モデナ時代に懇意にしていた公爵フランチェスコ1世の娘であった。

パルマでは、すでに「劇場」が支配的で、ウッチェリーニもオペラとバレエへと進出していった。少なくとも二つのバレエとひとつのオペラ 《Gli eventi di Filandro ed Edissa》がファルネーゼ劇場のひとつで初演されたはずだが、残念ながら楽譜は消失している。ファルネーゼにおけるウッチェリーニの地位はかなり柔軟なもので、残された資料(契約書)によると“il carico di doverla servire in quello che gli occorra” と明記されており、これは「ウッチェリーニ叔父と甥は、いつでもどこでも必要とされたときに演奏しなければならない」ということだった。これはウッチェリーニがファルネーゼ宮廷と縁のあるエミーリア=ロマーニャ地方を頻繁に旅行したことを明らかにしている。

ウッチェリーニは、1680年9月10日に、生まれ故郷の Forlimpopoli で生涯を閉じた。遺言により、かの地の Madonna del Carmine 教会で埋葬されている。跡取り(相続人)はなく、遺言により彼のすべての財産は Collegio of San Ruffilloに寄付されている。

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