バロック音楽の実演を聴く「素晴らしい音楽と傲慢な学芸会『プラテ』」2014年11月

ラモーの音楽の魅力に負けて、嫌いなテラカドの演奏会に行ってしまいました。あんなに素晴らしい音楽なのに、なんであそこまで「学芸会」にしなければならいのかしら。あれなら昔ながらのコンサート形式の方がよいです。
船山信子さんの解説によると、1988年東京の夏音楽祭「ゼフィール」、1996年北とぴあ音楽祭「ピグマリオン」、1997年同「アナクレオン」、2000年同「エベの祭典」、2001年同抜粋コンサート形式「ボレアド」、2003年同コンサート形式「イポリトとアリシー」。そして、ついに「プラテ」上演、なのだそうです。わたしは残念ながらテラカド嫌いと、北とぴあ嫌いのため、全くご縁がありませんでした。
ラモーの音楽は大変素晴らしい傾聴に値するものでした。しかし、そのラモーの素晴らしい音楽にテラカドはあまりにも惨い衣を着せました。古楽は伝統の厚化粧を落とすことをしてきたはずなのに。全く「演出」といえるものは存在しません。照明や衣装のデザインも存在しないに等しいと思います。その上で、先行する上演の惨いコピーを随所に行い、保育園のお遊戯に比較するのも失礼な。「ゼフィール」の時に林光が批評した「舞台芸能としての面白さに欠ける」どころの騒ぎでなく、当然「ママはレスリングクイーン」のようなキャッチなスペクタクルでもなく。ラモーがあまりにも可哀そう。思い返すと、やはり「こんにゃく座」はきちっと演出が存在しました。先日の「三文オペラ」も演出がありました。当夜のプロフェッショナルといえたのはただただ、作曲家ラモーだけでした。日本人歌手連の質的向上が霞んでしまいました。
テラカドは、バロック音楽やラモーの音楽に詳しい専門家なのかもしれませんが、オペラ上演の伝統とか、スペクタクルの伝統とかにあまりに無頓着すぎます。なぜヨーロッパの人たちが赤字を増やしてでもオペラを継続するのか、現実には歌唱言語が理解できていなくても聴き続けるのか、テラカドは何か考え違いをしているとしか思えません。上演記録を作るだけしか考えていないみたいです。ギネス狙いじゃないのですから。自分の記録更新のためにラモーとその音楽を使うだけなら、ラモーやバロック音楽に対する尊敬のかけらも感じ取ることができません。

ガンズ版「美女と野獣」と反転していて、興味深く鑑賞できるはずだったのですが。

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追記。テラカド嫌いなのでいろいろ書きましたが、1988年に「ゼフィール」の復活世界初演に立ち会った幸運で、大のラモー・ファンです。
解説によると、船山信子先生はピュイグ・ロジェから「プラテ」をいつかと勧められていたそう。そして、ラモーがドイツ人だったら、バッハを凌ぐ存在になっていただろう、とニキシュが語っていたらしい。全くその通り。
にしても、人生でもっともたくさんオペラに接した記念の年になりました。1月にパリのバスチーユでマスネ「ウエルテル」、4月に東京でコルンゴルト「死の都」、9月にブレヒトの「三文オペラ」、掉尾をラモーで素晴らしい年でした。
ラモーのコメディリリクは、たいへん雄弁な音楽でした。キャラクターをあらわすメロディはワーグナーみたいにでてくるし、情景描写はリヒャルト・シュトラウスのよう。2幕の重唱の幕切れはモーツァルトのようでした。オケはホルンやトランペットがなく、ウインドマシーンなどのパーカッション豊か。
きちっとした「演出」があれば最高でした。「演出」も兼ねた美しい音製造だけの指揮者は、ラモーの音楽の素晴らしさに救われた、に尽きます。よく聴くとラモーのアリアはあまり技巧的に聴こえません。バッハの書き込まれたアリアの方がはるかに技巧的だと感じました。3幕のプラテの歌うシャコンヌもそう。むしろ自然な感情が盛り上がってきました。バッハの書き込まれたシャコンヌはなんと技巧的でかつ暴力的なほど、と。
もしラモーがドイツ人だったら----なるほど。




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