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【短編】IH(Imaginary Hero)

 私は、いたって普通の女だった。
 美人なわけでも、醜いわけでもない。
 体形に恵まれたわけでも、体力があるわけでもない。

 普通の学校へ行き……
 普通の会社に勤め……
 普通の生活を送る……

 普通のこと……
 それが、一番難しくて、一番幸せなことだって、当時の私は、知る由もなかった。

 一寸先は闇……
 まさか、あんなことになるなんて……
 ――― ――― ―――

「ハアッ……ハアッ……ハアッ……」
 
 私は、薄暗い夜道を全速力で走り、住居に転がり込んだ。
 まさか、こんなことになるとは思わなかった。
 
 一年前の合同コンパ……
 相手は、やたらと顔立ちの優れた美青年……
 お互いに気が合い、交際を開始した。

 しかし……よくよく考えたらおかしいことだった。
 神様から、あれだけ綺麗な顔を授かった青年が、心まで綺麗なモノを授かっているとは限らないのである。
 
 彼は、とんでもない男だった。
 しつこく、厚かましく、気色悪い……
 初めは我慢していたが、その異常な愛情表現はエスカレートする一方であった。

 彼の好意は、私ではなく、私の中の「女」にしか向いていない。
 そう分かった時、私は彼に言った。

「別れて」

 その一言が、彼を怪物に変えてしまった。 
 ――― ――― ―――

「!!!!!」 
 
 ふと、携帯電話の画面を見た瞬間、背筋を冷たいモノが走った。
 画面は不在着信で埋め尽くされていた。

 彼との連絡に使っていた電話番号を変更したのにも関わらず、どうやってやったというのか……彼は新しい電話番号を探知したのである。
 
 それだけではない……
 会社、私用メール……
 全てにおいて、彼からのラブレターが埋め尽くしていた。

「逃がさないよ。ハニー」

 間違いない。
 私の信用ある友人の中に……彼に買収されたのか否かは知らないが、情報を流した者がいるのである。 
 私の信用ある友人の中に……スパイが潜り込んでいるのである。

「ねえなんで答えてくれないの」

 私は、誰も信用できなくなった。
 
「こんなにも愛しているのに……」

 私は、警察に通報しようとした。
 しかし、ここまでして私を突け狙うストーカー……警察までもグルになっているのではないかと考え、私は頭を抱えた。
 
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す……殺しちゃえばもう僕のモノ」
 
 ――― ――― ―――

 しかし、警察は予想以上に有能だったのである。
 頼るあてのなくなった私が、耐えきれずに110をコールし、通報した刹那……

「チサさん。住所は〇〇ですね。分かりました! すぐに警察官を護衛に向かわせます!」
 
 住所を敵方に与えてしまったのではないか……と、私はしばしの間、自己嫌悪に陥った。
 しかし……

――ピンポーン!
 玄関のチャイムが鳴る。

 心臓に楔を打ち込まれたかのように身体が動けなくなる。
 しかし……インターホンの画面に映っていたのは……

「チサさん!」」
 派遣されてきたのは、温厚そうな顔をした女性警官達だったのである。
 私は、助け上げられた安堵感やら、追い詰められた切迫感やら、様々な感情が入り交じり、腕を広げた女性警官に抱きかかえられ、その胸で、おんおんと泣いてしまった。

「災難でしたね。よく頑張りました。もう大丈夫ですよ……」
「良かった良かった」

 女性警官たちは、暖かい言葉をかけてくれる。
 ――― ――― ―――

 有能な警察により、すぐさま近隣のパトロールが強化された。

 その後……
 あの男は捕らえられて拘束され、連行されていったらしい。

「私は無実だ! チサ! 君からも何とか言ってくれ! 僕と君は運命なんだ! チサ! チサあああああ!!!」
 
 詳しくは聞いてないが、男は捕らえられた刹那、そのような内容のことを叫び散らかしたらしい。

 そして、私の部屋からは、いつ仕掛けたのか、盗聴器と隠しカメラまでもが発見された。

 再び背筋を冷たいモノが走る。
 彼の前では、私一人をとり殺すくらい、赤子の手をひねるように簡単なことだったのかもしれない。

 しかし……恐怖は終わらなかった。
 ――― ――― ―――

「チサさん! 落ち着いて聞いて下さい!」

 警察からの強烈な一報……
 私は再び凍り付いたかのように動けなくなった。
 
「奴が逃げました! 今あなたの所に警官が向かっています! すぐ出入り口に鍵をかけて下さい! 絶対に外へ出ないように!」
 
 いくら有能な警察でも、完璧はあり得ない。
 何と……
 男は何らかの方法で留置場を抜け出し、護衛の警察官を退いて、こちらへ向かってくるというのである。
 
 三度、冷たいモノが背中を走る。

 玄関はしっかり施錠がしてある。
 だが……
 玄関と……窓。
 
 窓!!???
 
 今は春……
 男が捕まり、安心していた私は、温厚な外気を取り入れるために窓を開け放していた……
 
(まずい!!!)

 私は、部屋へ飛び込み、そして絶叫した。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!」

 幸運なことに……
 記憶に反して窓は閉まっていたのである。閉まっていたのであるが……
 
 窓の外側に佇み、世にも恐ろしい眼光を光らせ、こちらを見据えているのは、あの男だった。
 その男の右手には、ガラスどころか、人間の命さえも一撃で割り砕いてしまうような、金槌が握られていた。
 左手には、鋭利なナイフ……

「ふっふっふ……やっと会えたね。ハニー」
 男は舌なめずりをし、窓を割ろうと金づちを振りかぶった。

――ガッシャアアアアアンッッッ!!!
「嫌アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」
 
 絶体絶命……!!!
 しかし……!!!

「待てええええええええッッッ!!!」

 強烈な怒号と共に、突如現れたのは……奇妙な服を着た大柄な男……
 その大柄男は、怯む間も与えず男に躍りかかり、恐れることなく金づちとナイフをはたき落して、その身柄を締め上げた……!!!

 続いて駆けつけた警官が、男を縛り上げ、手錠をかけた。
 
「チサさんッ! 大丈夫ですか!? 無事でよかった」
 大柄男が、私の元へ寄ってきて、肩に手を置いた。
 
 何という暖かい言葉……そして暖かい手だろうか……
 私は、恐怖と驚きに怯え、涙を流していた。

 男の名は「オール」……戦士連合本部に勤め、怪物から人々の平穏を守る、ヒーローである。

 これが、私と彼との、初めての出会いだった。
 ――― ――― ―――

 それから幾度となく、オールは私を助けてくれた。
 
 強盗……
 狂犬……
 詐欺師……
 ……

 相手がどんなに優れた身体能力を持っていようとも、どんなに切れる頭脳を持っていようとも、戦士であり、同時にヒーローである彼の前では、どんな怪物も形無しだった。
 やがて……
 
「愛してるわ。オール……」
「俺もさ……チサ……」

 私は、彼を恋い慕うようになった。
 あろうことかオールも、守られることしかできない上に、普通の女に過ぎない私を、愛してくれたのである。

 そして、普通だった私にとって、これ以上ない、幸せな生活が始まった。
 
 戦士であり、みんなのヒーローであった彼「オール」は、私だけのヒーローになってくれたのである。
 ――― ――― ―――

 しかし……ある夜のことだった。

「チサッ!!!」
 買い物を終えた私の耳に、懐かしい……しかしただならない声が響く。
 そこにいたのは、オールと同じ、奇妙な服を着込んだ男。

「シンジ……???」
 
 シンジ……
 彼は、学生時代を共にした、懐かしい男だった。 
 暫く会っておらず、忘れかけていた存在だったが、目の前の彼は、あの頃と大して変わっていなかった。

「シンジ……一体どうしたの?」
 
 そう尋ねながら、オールの顔に眼をやった私は、愕然とした。
 オールは、見たこともない表情を呈した。明らかに、これ以上ないくらいに憤怒していたのである。

「何者だ! 貴様!」
 オールは怒声を上げた。
 
「待って! オール! 彼は私の知り合いよ?」

 訳の分からぬオールの異常な表情と剣幕に、私は唖然とする。
 しかし……

「チサ! その男から離れろ!」
「ええ!??」
 これまた訳の分からぬシンジの発言に、私は混乱した。

「くそうッッッ!!!」
「ま、待って!!!」
 オールは私が止めるのも聞かず、シンジに殴りかかった。
 
 瞬間……!!!
――バアンッッッ!!!
 その大きな拳撃をかわし、強烈なシンジのカウンターが、オールの頭に炸裂した。
 燈赤の火花のようなモノが散る。
 
 その時だった。

「あれ???」
 急に、オールの巨大な身柄が消えた。
 確かにそこにいたはずの存在が、消え失せてしまったのである。
 
「え?」
 訳の分からぬまま、私は意識を失った。

 失う直前……
 シンジは、倒れ込む私の身柄を抱きかかえ、言った。

「済まなかった。間に合わなかった。こんなことになっているなんて」
 ……
 ……
 …… 
 ――― ――― ―――

 ……
 ……
 ……
 チサは、脱法ハーブをはじめ、麻薬の常用者だったのである。
 そして自らは、そんな闇に足を踏み出しているなんて、知る由もなかった。

 以前付き合っていた、あの怪物男に勧められたまま、薬物を知らず知らずのうちに常用していたのである。

 オールなんて言う男は、この世には存在しなかった。
 彼女にとってのオールは、あくまで、ドラッグが見せた幻覚、イマジナリーヒーロー「Imaginary Hero」に過ぎなかったのである。
 
 変わり果てた彼女を救うべくやってきた者達は、あろうことか……彼女の前においては、強盗、狂犬、詐欺師としてしか現れることが出来ず、強靭なIHを前に、彼女を救うことが出来なかった。

 そうして、本物の戦士にして、古い友達だったシンジが呼びだされたのである。
 変わり果てた彼女を救うべく、シンジは立ち上がったのである。

 シンジは、彼女の強力なIHを倒し、彼女を現実へ引きずり戻した。

 今、彼女は、脱法ドラッグと手を切るべく、更生施設にて、禁断症状と戦っているという。
 ……
 ……
 ……
 ――― ――― ―――

 気を付けて……
 私は戻れたから良かったものの……戻れないところまで踏み入ってしまう人もいるの。

 普通にしてれば、触れることはないけども……
 普通って本当に恵まれていて、有り難いモノなのよ。

 今の私にはよく分かる。
 
 IH(Imaginary Hero) 完
 ――― ――― ―――

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