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平田篤胤と勝五郎


バラモン教などの宗教的解釈を除けば
勝五郎氏の転生は、(恐らく)日本という
より世界で最初の学究的な記録です。

勝五郎の別名(あだ名)を「ほどくぼ
(程久保)小僧」といい、出生した東京
日野市では今日でも有名人なんだそうです。

記録した平田篤胤は江戸四大国学者の
一人として称される人物です。

特に復古神道の思想は、その死後に勤皇の
志士(テロリスト)集団の尊王攘夷に大きな
影響を与えました。

折角調べたので勝五郎と平行して
平田篤胤の足跡も書いていきます。

平田は1778年、現在の秋田市中通り久保田
(久保田城)で秋田藩士・大和田清兵衛4男
として生まれました。

20歳で江戸に上京、23歳の時、松山藩
(岡山県)平田篤徳の養子になりました。

1803年、江戸の国学者・本居宣長が夢枕
(明晰夢)に現れ夢の中で弟子入りを
懇願しました。

宣長は既に没していましたが、
没後に宣長の門人に入門を許されました。

1812年、妻の織瀬が31歳の若さで
死去しその年に霊能真柱を書き上げました。

当時の国学者は頭の固い人物が多かった
のですが、平田は柔軟でキリスト教や西洋
天文学など多方面の文献を諳んじていました。

篤胤は国学者の割りに、知識の幅が広く、
元々、蘭学を志していたという話もあり、
観念論だけの学者ではありませんでした。

この時に民間伝承や得体の知れぬ
奇聞の聞き取り調査をしました。

今で言う民俗学の研究で、
人文学者の一面も持ち合わせていました。


民俗学的調査の時に現在のオカルト分野
である死後存続の世界に興味を持ちました。

その信憑性のせいか、平田は異界や
霊魂の著作を何作も書き上げました。

その事例の一つとして「勝五郎再生記聞」
というインタビュー記録が出来たんです。

勝五郎は1814年、武蔵国多摩郡中野村
(八王子市)に生まれました。

8歳(1822年)の時、遊んでいた姉に向かって
「自分は程久保村(日野市)の藤蔵という久兵
の子供だったが、お姉さんは生まれる前、
誰の子だった?
」と話しました。

ちなみに当時の民族宗教では、こういう
霊的な要素は邪道で、信仰によって
記憶が出てきた要素は少ないと思います。

邪道とはいわゆる幽霊です。

物理次元的な話ではありませんので、
勝五郎の話題は異質だったと思います。

勝五郎は前世の情報を次々に話、村では
勝五郎の証言が取れて「嘘ではない」と
評判になりました。

評判を聞いた元若狭藩(鳥取県)藩主だった
池田定常(池田冠山)という人物が江戸から
尋ねてきて、勝五郎を取材しました。

定常はその記録を「前世話」という本に
まとめ、篤胤より早く出版しました。

冠山(定常)の取材話や著作は滝沢馬琴が
小説としてまとめ、江戸の知識人の間でも
大きな話題になりました。

武州の地頭(勝五郎一家の領主)、多門伝八郎は
勝五郎を取り調べ、その記録は幕府(公的機関)
の御所院番頭・佐藤美濃守に提出されました。

勝五郎の転生話は幕府も公的?に認めました。

篤胤は、既に民俗学者として活動していて、
天狗と接触した寅吉少年の話を取材し「仙境異聞」
という記録にまとめました。

篤胤は1823年、多門伝八郎と接触し、勝五郎を
学舎に招いてインタビューをしました。

伝兵衛の調査によると、勝五郎の前世は
百姓・久兵衛の息子、藤蔵で、8歳の頃、
疱瘡で死亡したという内容でした。

久兵衛は藤蔵より先に病死し、再婚した
半四郎という者が母のおしずを嫁い、
その家を継いでいました。

村の評判により、村役人が半四郎を訪れ調査
したところ、勝五郎の話の細部に及び適合しました。

後に知行所が調べたところ、やはり
相違ないという結論に至りました。

この記録は多門がまとめましたが、
篤胤も更に勝五郎を調査しました。

勝五郎は、実は4歳に前世を祖母に語り、
それ以後も度々昔暮らしていた家族に会い
たいと両親に話していましたが、人目を
憚り秘匿されておりました。

勝五郎はその頃からヴィジュアルで繊細に
覚えていた記憶を所々忘れるようになりました。

8歳の頃、完全に忘れる前に姉に話したところ、
遂にそれが人目に触れたというわけです。

*姉か家族が情報を漏らしたようだ?

人間が死ぬ瞬間、というのは当人には分かり
ませんから、何故死んだのかは本人には
分かりませんでした。

疱瘡で死んだのは半四郎家に
聞いてから判明したようです。

勝五郎は死んでから転生する間までの
中間性記憶の部分をよく覚えていて、篤胤に
詳しく語りました。

彼は「夭折する運命ではなかったが、薬を
飲めなかったのが原因だった」と語りました。


篤胤に語ったところ、勝五郎は脳死状態の
筈なのに棺桶で眠っていた状態から、自身が
抜け出す様子を克明に記憶していました。

藤蔵(勝五郎)は「死後も暫く家に居たが、
見知らぬ白髪の老人が現れて空を飛んだり
地を走った後、花の咲く草原に遊びその後
生まれ変わった」と語りました。

老人は「あの家に生まれなさい」と藤蔵を
導き、母親の腹に入った後記憶が途絶えました。

勝五郎の父、源蔵はその老人は中野村の
産土神、熊野権現であろうと語りました。

勝五郎の記録は、イアン・スティーブンソン
が調査した事例とも共通した部分が多いとされます。

転生者は共通して神か仏を信仰
している人物が多いです。

立花隆は信仰の部分を噓くさいと話して
おりますが、情報の力場とか引き寄せの
法則
と同等だと思いますので、宗教で
差別するのは無理があると思います。

これらの内容は、心霊主義や新宗教など
に組み込まれて脚色されたのも事実です。


それで、篤胤は固定観念や偏見を省くため、
他の人物も調査に加え、入念に勝五郎の
聞き取り調査をしました。

勝五郎の時代は幕末直前で、洋学、
医学、蘭学なども研究されております。

俗信や信仰一辺倒という時期でもありません。

教養人達が何らかの科学的思考の
上で調査しているのは明白です。

それとは逆に、南総里見八犬伝等、
怪異なる文化の隆盛もありました。


勝五郎の記録は明治期に小泉八雲が記述し、
1897年に八雲の著作(随筆集)として
米国で発売されました。

その数十年後、八雲の本はイアン・スティー
ブンソンの研究(論文)にも大きな影響を与え
ました。

その後の勝五郎は、源蔵の後を継ぎ百姓の
傍ら竹籤を作り、横浜まで売りにいく商人
をしたようです。

江戸から養子をもらい1869年(明治2年)、
55歳で死去しました。

死後の勝五郎氏の行方は分かりませんが、
どうもやはり、夭折に近いほど前世の記憶が
再生されるのは確かなようです。

パラダイムが存在するかは分かりませんが、
生への渇望、執着が転生を呼び込む、恐らく
これも確かだと思います。

壮年以後の篤胤はインドや中国の文献を調べ、
易教や神的世界の研究を断続しました。

篤胤の学舎は盛況で、没後の幕末期には
当時の2倍以上の門下生で溢れました。

西郷隆盛も一時はその門下生でした。

ところが、公的学問であった暦学を民間の学者が
勝手に執筆してしまったことにより、篤胤の学舎
が睨まれて(天保の言論・思想弾圧の一環とし)、
あげくに江戸を追放されました。

秋田藩に追放された篤胤は何故か医師として
重宝され多忙を極め、遂には過労で病床に伏しました。

1845年、68歳で死去しました。

この年、29歳の勝五郎氏は所帯を持ちました。

平田は異界の研究と執筆はしていた
ものの、浄土に関しては否定しています。

復古神道を執筆した側面として、檀家制度
や浄土教類への批判がありました。

冥界を垣間見た勝五郎氏も、仏の極楽浄土
のような場所はなかったと話しています。

自分の屍に向かって唱える坊さんのお経を
高次元(三次元以上)で見ていた(聞いていた)
勝五郎氏は「僧侶は金だけ取ってどうしようも
ない」と思ったそうです。

勝五郎が会った産土の老人や、幽冥と接触した
子供が調査した中で存在するのは事実です。

その国の民族宗教や神話のような情報世界が
実際に存在している可能性も大いにあるんです。

仮想世界は物理世界とは違う場所に
存在しているのかもしれません。

ホログラフィー原理で重力と空間が別々に
存在しているような感じでしょうか?

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