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本日の一歩🦶飛鳥文化を掘り下げる‼️

日本の福祉の歴史を、6世紀から眺めてみると、飛鳥文化から始まる歴史なんだと分かりました。
これまで、3回、6世紀、7世紀、8世紀と、日本の歴史を見てきましたが、
文化としては、
飛鳥文化⇨白鳳文化(大化の改新後)⇨天平文化
と移り変わっていきます。
この文化を、もう少し丁寧に眺めてみたい。
そんな気持ちになりました😊🔥

本日の一歩🦶は、飛鳥文化を掘り下げる‼️です😆✨


飛鳥文化とは

日本の飛鳥時代に栄えた仏教を中心とした文化のことです。
飛鳥時代は、592年から710年までの約120年間で、仏教が百済や高句麗から伝来し、中国や朝鮮半島の文化の影響を受けながらも独自の発展を遂げました。
飛鳥文化の特徴は、以下のようにまとめられます。

①建築

日本最古の本格的な仏教寺院である飛鳥寺や四天王寺が建立されました。
法隆寺は現存する日本最古の木造建築で、中国六朝の建築手法を伝えています。
百済大寺は天皇家が発願した最初の寺院で、九重の塔がそびえ立ちました。

②彫刻

金銅造や木造の仏像が多く作られました。
法隆寺金堂の釈迦三尊像は聖徳太子が発願し、鞍作止利が制作したもので、北魏様式の特徴を示しています。
法隆寺夢殿の救世観音像や
中宮寺の半跏思惟像は南朝様式の影響を受けています。

③絵画・工芸

天寿国繡帳は絹織物に金銅糸で曼荼羅を繡ったもので、西域文化の影響が見られます。
玉虫厨子は木製の厨子に玉虫色のガラス片を貼り付けたもので、工芸品として優れています。

④文学・学問

聖徳太子は仏教経典に注釈を付けた三経義疏を著しました。
観勒や曇徴などの渡来僧が暦学や天文学を伝えました。

飛鳥文化は、日本における仏教文化の最初の興隆期であり、国際性豊かな文化でもありました。

北魏とは

北魏とは、中国の北の方にあった国です。
北魏は、鮮卑という遊牧民族が作った国で、中国の歴史では南北朝時代と呼ばれる時代(隋の前の時代)にありました。

南北朝時代

中国が南の方と北の方に分かれていた時代です。南の方には漢民族が住んでいて、北の方には鮮卑や匈奴などの遊牧民族が住んでいました。
北魏は、386年から534年まで続きました。最初は小さな国でしたが、だんだん強くなって、北の方のほとんどを支配しました。北魏の地図を見ると、モンゴルから黄河までの広い範囲に広がっているのがわかります。

北魏の隆盛

北魏は、中国の文化や制度を取り入れて、自分たちの国を発展させようとしました。仏教も大切にして、たくさんの寺院や仏像を作りました。
北魏の仏像は、顔が細長くて目が大きくて(アーモンドアイ)、鼻が高いという特徴があります。これは、鮮卑族の人たちの顔立ちを表しています。北魏の仏像は、日本にも伝わってきて、日本の仏像にも影響を与えました。

しかし、北魏は内部で争いが起こって弱くなりました。534年には、六つの地方の長たちが反乱を起こして、北魏を東西に分けました。
これが東魏と西魏です。東西に分かれた後も争いは続きました。557年には東魏は北斉に、西魏は北周に変わりました。581年には北周が南朝陳を滅ぼして中国を統一しました。これで南北朝時代は終わりました。

飛鳥文化と白鳳文化

飛鳥文化と白鳳文化の境目は、645年(大化元年)の大化の改新とされています。
大化の改新とは、蘇我氏の権力を倒して、天皇中心の政治を始めた出来事です。
この時に、飛鳥地方から藤原京に都が移されました。藤原京は中国風の都城で、日本の国造りに向けての意気込みが感じられます。

飛鳥文化と白鳳文化の違い

○飛鳥文化は、仏教や同時に伝えられてきたヨーロッパやシルクロードの文化をそのまま広めた文化です。
百済や高句麗などの朝鮮半島の国々から伝わった南北朝時代の中国文化の影響が強く見られます。法隆寺や飛鳥大仏などが代表的な作品です。
○白鳳文化は、仏教が基盤の文化でありながら、日本風の文化をミックスさせるようになった文化です。
百済以外の国々からも文化や技術を取り入れて、日本人らしい作風を作り出しました。
薬師寺や高松塚古墳などが代表的な作品です。

つまり、飛鳥文化から白鳳文化へと変わっていった過程では、日本は中国や朝鮮半島だけでなく、より広い地域と交流を深めて、自分たちの国に合った独自の文化を創造していったと言えます。


本日の一歩🦶は、ここまで‼️
中国や朝鮮半島の影響を受けながら、日本の文化が変容していく姿は、とても見応えがありますね。
中学生の頃に授業で習った時には感じなかった、色々な思いを、今なら少し感じ取れるようで、楽しいです😊✨

今人生で一番、奈良に行きたい気持ちになっています😆✨笑

では、また👋

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