「ビジネス書100冊本」を「革命」のための「武器」にしてしまった話

特に定期的に記事を書く予定はないので、名乗りは控えます。また、結論ファースト等のいわゆる機能主義的な修辞は行ないません。

導入

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』が世間を騒がせて久しい。著者は堀元見。自ら”衒学者”を名乗る珍妙なインターネット芸人だ。貴書周知の担い手たるYouTubeチャンネル『衒学チャンネル』は、サーカズムに興じる彼の性格に反して、非常に素直な名付けであり、キューティーな仕上がりとなっている。”ギャップ萌え”とは、こうした何気ない所作にこそ宿るものなのだ。愛敬を宿す皮肉屋。しかし、これは裏の顔である。表の顔、つまり『ゆる言語学ラジオ』での彼の顔は、相方である水野太貴氏の存在ゆえか、幾分異なって映える。”深読オジサン”としての顔を顕にし、水野氏と共に、自身の精神世界の境域へ踏み込む思弁的生命体へと変貌遂げる。概して人間は多くのペルソナをもっているから、二面性の存在自体は特筆すべきことではない。しかし、この彼の有する表裏二面こそが、彼の魅力であり、そこにこそ、”堀元見”の真骨頂が存する。

この文章にはメタ的な意図が多分に含まれている。そもそも、この文章自体に一種の”衒い”と”深読み”が透ける。何を隠そう、私も自らの腹中に”衒学者”と”深読オジサン”を住まわせているのである。そしてこの腹中の同居者たちが、タイトル通り、渦中の書を箕輪本に変じてしまったのである。

はじめに貴書のレビューを書こうとした。私を衝動する自己顕示欲。私はそれに抗せず、筆を執ったのだ。だから、独創性のある酷評が書評のスタイルになるのは必然だった。一方でどうにかして視聴者であることを仄めかしたかったし、また、Live配信出身のミームを多用することで直接的なアピールをすることも避けたかった。すでにクリシェ特有の腐臭がそこには漂っているように思えてならなかったからだ。そこで件の二人の動員に私は踏み切ったのである。

果たして酷評は面白くなかった。そもそも、衒学性向が語彙にのみ集中し底の浅さがどうしても透けてしまう。これでは、学がスッカスカだから語彙に頼らざるを得ないミソッカス人間であることを自ら証明しているようなものではなかろうか。ちなみに、林修はこれを略して「スッカスカのカッスカス」と表現した[要出典]。そういうわけで、私は内容の充実を図って、酷評の終盤で態度を翻し、「そのような欠点にも拘らず」という文脈で、貴書の価値を論ずることに決めたのである。

さて、それは如何なる論評となったか。私は「ビジネス書百冊本」を革命の書であると結論づけた。無意味に難解なテイストにしたが、個人的には正鵠を射た「ビジネス書批判論」になっていると思っている。最後に、本論考の完成のために尽力くださった御二方への謝意でもって、この導入部の締めくくりとする。

以下引き続き無料になるが、気になる方はぜひ最後まで読んでほしい。

そっくりそのまま、屠毒筆墨

自己啓発本多読者諸賢へ。

タイトル通り、読み手に害をもたらす著作である。より精確に言えば、この本は著者の溜飲を下げるためのものであって、そのために発される悪意のある表現こそが、人間の精神に害をもたらすのだ。

「ベストセラー100冊」をその名に冠する通り、本書ではいわゆる売れた本が多く紹介される。しかし、自身に納得のいかぬベストセラー本を彼は嘲弄し、悪趣味な茶化しによって、その価値を貶めようとしている。

そもそも、本書には著者のプライドを窺わせる箇所が散見される。いわば、”作家としての矜持”である。つまり、彼のフラストレーションの根源は、そのような矜持のない著者による書籍が河図洛書の如く有難がれ、自身の作品より売れるところにあるのだ。

このような嫉みにも拘らず、著者はそのような曲学阿世に与さぬ自己を仰いでさえいる。むしろ、だからこそ、飽くまでシニックに徹し、そのような著作を扱き下ろそうとするのだ。

このように、著者の傲慢さが上記の不遜を原因する点で、彼の態度は傲岸不遜と評さるに相応しい。

しかし、かような稚拙極まるやり方で他書を謗ったところで、洛陽の紙価を高めることにはならないのは言うまでもないだろう。

ただ、ここまでこの書評を読まれた方で、購入を控えようとする方がいらしたら、待ってほしい。本書は屠毒筆墨でありながら不刊之書でもあるのだ。著者は伏竜鳳雛であった。

以後ネタバレを多用するので、未読の方はぜひ書籍を読了してから読んでいただければと思う。

本書は「革命」の書である。

本書の自己啓発本界隈への最大の貢献は、これらに共通して内在する汎化と美学化の態度に批判を向けたところにある。

これは多くのビジネス書がその本性を誤っていることから生ずる。

彼はその誤りを「教え」と表現し、列挙することで、自己啓発本に対する本質的な批判を展開する。「教え」の相互矛盾や絶対化に対する皮肉、「過言」や「過激」等の表現。……これらすべてがそれらの著者による操作的な体験の汎化と美学化に伴う自己啓発本の危険性を晒すのだ。

自身の体験を抽象化し、汎用的な「教え」に還元すること。

これが、コンテクストなき概念操作を招き、教条主義的な「教え」の絶対化を引き起こす。この結果として、現に起こっているような成功のための成功、つまり成功の耽美主義化が推し進められる。もはや大衆から「武器」は取り上げられてしまったのである。だから、本書がかような現状で出版されたことは、ある種の必然性を帯びているのだ。

ところで、このような自己啓発本は如何なる害毒を社会にもたらすのであろうか。本書ではこの議論を作為的なまでに回避し続けるのだが、自己啓発本界隈の前線では再三議論のされたことでもあるため、ここでは著者に代わって簡単にそれを説明したい。

今、私に要請されるところの解説は、美学化における自己啓発本に固有の問題についてであろう。というのも、美学化、あるいは耽美主義そのものに内在する問題は、古今に議論しつくされてきたことであろうから、そのようなことについて、本書読者諸賢は十分に諒解していることであろうし、ここで紙幅を割くようなことはしない。

ただ、もし私のこうした態度に反感を抱かれるのであれば、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は大いにあなたの納得に貢献してくれるだろう。また、大江の『セブンティーン』やドゥルーズ、バディウあるいはその類縁の哲学者や詩人の文献・作品群をサーベイしてみるとこのことについてより深い納得が得られる。

閑話休題。

自己啓発本の美学化とは如何なる毒か。

それは現実から剥離した「成功」概念に読者を従属させ、彼らから俗世の「成功」を奪い去るところにある。さらに質の悪い事に、自己啓発本の主題は俗世における成功であり、入り口において彼らが吹聴するのはそういった具体的次元における「成功」なのだ。彼らはこの具体から抽象への移行を巧妙な詐術でもっておこなっているから、多くの人はそのことに気付かない。

そして、本書で「教え」と表現される諸々の命題群は、この移行の所産であり、だからこそ自己啓発本の過誤そのものでもあるのだ。

この「教え」は概して、章のタイトルを冠し、章の結論を担うばかりか、過剰な強調表現(本書でも皮肉的にそれらが多用されている)を伴って章中で存在感を示す。こういった扱いを通じて、出来事はドクサに従属する装置となり、著者による伝聞的形態をとることで、「教え」の宗教的神秘化の作用素としての役割を担わされる。「教え」は正に出来事を背面に追い遣ることによって、コンテクストを排除し、自身を抽象的次元へと至らしめる。こうして、「成功」は世俗的ハウツーの文脈を超脱し、それぞれの定義域の範囲において普遍性を確保しようとする。

このような「成功」のすげ替えに、我々はふつう気付かない。何故か。

美学化の作用素として構成された出来事が宗教的神秘体験のようにして、世俗的次元と抽象的次元の中間子を為すからだ。これが「成功」のすげ替えを自然なものにしかつ、抽象的次元を美学化する。かくして我々は全く気付かぬ内に、「教え」に拝跪せられるのである。

彼の行った非明示的な批判の数々。相矛盾する「教え」の突き合わせ、中間子・神秘化の機能をもった出来事の排除、過言や過剰の表現。先に述べたとおり、これらは巧妙に隠された自己啓発本の危険性を暴露するのだ。

さて、このような現状にあって、何が希求されるのか。出来事とドクサの転倒、つまり「革命」である。私は本書が「革命」の書であると冒頭で述べた。

教え27の「自分の頭で考える」は正しく革命的な教えである。

それは出来事主権の自己啓発本を執筆者に促す。読者の権利回復。「教え」の民主化。自己啓発本とは出来事の充実によって、読者による自発的な「教え」の湧出を促すようなものでなければならない。

そのような「教え」は最早、啓示のようなものではなく経験から産出された個人的な「教訓」であろう。

本書はそれを主張する限りにおいて、革命のための武器であり、正しく「現代アート」なのである。


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