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人のふり見て我がふり直せ。

会社員版、無敵の人。

 鉄道員という職業柄、旅客営業規則への理解の深さは大衆の比ではない。それで飯を食っているため、至極当たり前ではあるが、その知識で時折、解釈の余地があるグレーな規則を顧客有利な形でハックできないものかと、休みの日に同業他社で客として試してみたりする。

 別に悪用して完全キセルマニュアルの情報商材を、マニアに売りつけてぼったくろうなどと考えている訳ではない。規則上の穴とも言える、想定外のケースを思いつくと、純粋にどう対応されるのか試してみたくなってしまう性から、悪趣味なことをしてしまうだけである。

 そのため乗車券と用途そのものはたとえ合法でも、想定外ゆえに往々にして改札機が通れない。だから窓口に出向き、不足賃があるなら支払うと申し出るが、これまで不足賃を収受された試しがない。せめてJRで分割購入した切符の同時投入くらいは対応して欲しいものである。

 どうなるかが知れたところで目的は達成している訳だから、ここで会社としての見解を徹底的に突き詰める馬鹿な真似はしない。レアケース故に散々待たされた挙句、お茶を濁されるか、抜け穴が塞がれるのが関の山だからだ。

 だから満面の笑みでなんの前触れもなく火種をぶっ込み、混乱に乗じてサーっと手を引く、サイコパス的スタイルで、のらりくらりと同業他社を試しながら、各社のポリシーを垣間見る。不可抗力的に火に油が注がれることもあるが。

 それを自社の規則や制度に当てはめ、抜け穴があれば営業課にガンガン突っ込みを入れては、但し書き運用が常態化している規則の抜け穴を、どうにかして塞げないのか提案していた駅員時代の名残が、今の悪趣味を形成している。いずれにせよ、嫌な奴であることには変わりがない。

 望んでヒール役を買っているつもりはないが、物事を論理式で理解しようとする私が特異で「おそろしく矛盾している規則 オレでなきゃ見逃しちゃうね」なのか、はたまた周囲は面倒ごとに巻き込まれたくないが故の、気付かないフリをしているだけなのか。

 いずれにせよ、なぁなぁ、まぁまぁで先送りしても後輩の負担が増えるだけで申し訳ないため、非大卒のしょうもないキャリアや出世競争など微塵にも興味がなく、失うものもない会社員版、無敵の人状態の私が、会社や上役を巻き込んで白黒つけがちである。この時に、同業他社の事例を引き出しとして持っておくと、多少は納得感のある変更に着地しやすい。

何気ない日常に一瞬訪れるチャンス。

 そうして自身の悪趣味を正当化するために、自動改札で弾かれるような乗車券類を購入しては、窓口で知識のある面倒な客を演出しているが、元駅員の肌感覚として、こうした機械で対応できないレアケースは、窓口業務全体の1割にも満たない。

 基本的には現行の駅務機器類で対応可能な要件を、使い方が分からないから、マンパワーで対応して貰う程度の、しょうもないことをしているケースが圧倒多数であり、機械が対応しているのに、わざわざ窓口に並ぶ人の心理がいまいち理解できないが、それくらい、必要な情報を自ら取りに行ける日本人は少数派ということだろう。

 「なんでのりこし精算機使わないんや。」

 自動改札機では通れない乗車券類で、窓口から通してもらおうと並んでいたが、前の5人がのりこし精算で愕然とした。別に故障していたわけでも、締切作業中で機器内の売上金を回収している最中でもなかったため、純粋に改札で引っ掛かり、自動精算機の場所が分からないから、目の前に居る係員に切符を出せば対応してくれるだろう的な、安直な発想で列を成していたのである。

 ほんと世の中しょうもない輩ばかりだと、同業他社でしょうもないことを試している悪趣味な奴がボヤきながら、元駅員の自身と窓口対応する係員を重ね、同情しながら応対を観察していた。

 すると、マスク越しではあるが、どこか見覚えのある容姿だと思いながら名札に目を向けると、直感で思い浮かんだ名字と一致した。乗車券を丁寧に確認して、「大丈夫ですね」と通される時に、私が咄嗟に〇〇さんって元々△△社に居た方だったりします?と話しかけると、ハッとした表情で私の顔を見た。

 見間違えでもそっくりさんでもなく、紛れもなくかつて同じ職場で一緒に働き、同じ釜の飯を食っていた元同僚だった。お互い同業他社で違うキャリアを歩むことを決意した仲であるから、再びどこかで会える日など、現実的に考えて来る筈もないだろうと、去り際にしみじみ思ったが、世の中狭いものだ。

 久方振りの再会で話を弾ませたい気持ちはあったが、いくら顔見知りとはいえ、今回、私は客として、相手は係員として応対していることを、業界人として忘れてはいけない。

 私が挨拶代わりに名乗ったところで、他の旅客が窓口に来たので、軽く手を上げサイレントで「じゃあまた」と交わし、そそくさと改札を通った。次にいつまた会うか定かではないが、何だかまた会えるような気がした。

 「神は細部に宿る」なんてことわざもあるように、どうせ誰も見ちゃいないと手抜きをして、要領よく生きた方が圧倒的にラクではあるが、人生どこで何が起きるか分からないものである。

 世の中、いかにもな偉い人たちに見られている時よりも、何気ない日常の一瞬の方が、何かが変わるほどの奇跡的なチャンスに、巡り会える可能性が散りばめられていたりするもので、丁寧に生きている人ほど、そうしたチャンスに気付き、ものにするのだろう。

 結果だけ見た他人は「偶然」、「運が良い」、「天才だから」で片付けるが、日頃の行いが、いつどこで誰に見られても恥じないようであれば、あとは日の目を浴びる時を待つだけなのかも知れない。元同僚の変わらない丁寧な応対を見ていて、運も実力のうちなのと、悪趣味を謳歌している場合ではないと感じるものがあった。


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