朗読劇『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』参加記

こんにちは。れすです。
朗読劇『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』に参加しました。ぼくが参加したのは、9/4(土)の昼公演・夜公演です。ぼく個人としては、ロミオとジュリエットで初めて夏川さんの朗読劇を拝見したので、2回目の朗読劇参加となりました。朗読劇は特に好きなイベントの一つです。夏川さんの演技をこんなに間近で観劇できること、何度足を運んでも贅沢に感じる気持ちは薄れることがありません。本記事では朗読劇に参加した感想を書きますがその前提として、ぼくが朗読劇はストーリーを知らない状態で楽しみたい派のため、原作未読であることを但書しておきます。

朗読劇の魅力と夏川さんの演技について

ぼくの考えると朗読劇の魅力は、間近で演技を観劇できることによる、受け取れる情報量の膨大さです。駆け寄る動作一つをとっても、「BL本読んだよ」に対しては座っていたところから立ち上がって駆け寄り、某温泉物語で浴衣姿を披露するときに「どう?」と立った状態から駆け寄ります。本当は声という情報だけで、その動作を想像できるべきなのでしょうが、ぼく自身の訓練不足もあって視覚的にも情報が得られることはとても大きいのです。視覚的にではあっても一度その違いに気づくことができるというのは、その後の観劇においても大きな違いになってくると思っています。

そして何より物理的な近さは、これ以上なく感情や気持ちを伝えてくれる演者の表情をもたらしてくれます。今回の朗読劇で特に印象に残ったのは、純くんと会話するときははいつも夏川さんが目線を上に向けて演技していたことです(上目遣いが信じられないくらいかわいい。信じられないくらいかわいいです)。純くん役の廣瀬大介さんとは横並びで演技するような立ち位置ですが、上目遣いな夏川さんの演技は、純くんとの身長差がそこにあるのだと伝えてくれます。このリアリティに裏打ちされた演技があるからこそ、互いに向き合っていなくても掛け合いが成立しているのだと、そう思わずにはいられませんでした。

切れ目のない脚本について

朗読劇が始まり、ぼくの持った第一印象は、モノローグ・会話・ファーレンハイトと純の会話に切れ間がないことです。朗読劇という特性上、モノローグや地の文も声に出して読まれますが、通常は照明を駆使してその切れ目を演出することが多いように思います。例えば、純くんと三浦さんの会話からモノローグに映るシーンであれば、二人に当たっていたスポットライトから三浦さんのスポットライトを落とし、純くんだけに当て続けることで場面の切り替わりを表現できるでしょう。しかし本朗読劇においては、純くんの本音のあとで「なんて勿論言わない」が続けられるように、その真偽が保留されていました。その他にも、そもそも発言がなく本当に言った言葉なのか明かされないままストーリーが進行する場面もありました。つまり脚本として、切り替えがなく、どこまでが会話でどこまでがモノローグなのか境界が曖昧な演出になっていたのです。

ぼくはこれを意図的なものだと思っています。というのも、朗読劇を通して純くんが苦悩する直接的な問いが「三浦さんを選ぶのか。それともマコトさんを選ぶのか」だからです。この問いは「異性愛者になるのか。それとも同性愛者になるのか」という問いのメタファーでもあります。

そして登場人物の置かれた状況も多層的な構造になっています。マコトさんは妻子持ちでありながら、純くんと不倫関係を持っており、異性愛と同性愛を両立する存在です(マコトさんは、自身を「コウモリ」と表現していました)。純くんはマコトさんをロールモデルに、自身もコウモリになろうとします。でも、なれませんでした。

コウモリになれなかった純くんは、異性愛者にも同性愛者にもなれないのでしょうか。ぼくは最初、コウモリになれないことは、異性愛者にも同性愛者にもなれない純くんの苦悩の表現だと捉えていました。

しかしファーレンハイトの言葉を耳にして、気付かされました。

 ラブとライクでは「好き」の全てを表現することはできないよ。ラブにもライクにも属さない、あるいはラブにもライクにも属する「好き」が存在する
(複製台本より引用。©浅原ナオト/新井陽次郎/角川文庫 2020、©朗読劇『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』製作委員会)

この言葉こそが、カノホモで描かれていることそのものだったと思います。純くんの苦悩は「ラブ = 同性愛」、「ライク = 異性愛」として描かれていました。そしてこの物語の終着点は、ラブを選ぶこと、ライクを選ぶこと、そのどちらでもなく、純くんだけの「好き」を見つけることだったはずです。物語のエピローグで、三浦さんとの別れ話だけでなく、マコトさんとの別れ話もあったことがこの証左でしょう。(繰り返しになりますが、三浦さんは異性愛の、マコトさんは同性愛を象徴する登場人物です)

そしてなにより、純くんが見つけた「好き」は、観劇したぼくたち自身の中にも残るものであったのだと思います。冒頭で、どこまでが会話でどこまでがモノローグなのか境界が曖昧な脚本と書きました。この脚本は、純くんが物語を通してたどり着いた場所がどこだったのか、観劇者に委ねるような脚本だったのではないでしょうか。無難なやつと無難じゃないじゃないやつ。そのどちらの挨拶を選んだのかをぼくらに問いかけるような終幕だったと思います。

海について

時折、波の音が聞こえてきました。ファーレンハイトの恋人が死んだことを告げられるシーン。ファーレンハイトの父親を訪ねるシーン。そして何より象徴的だったのはファーレンハイトの部屋に入ったシーンで、波の音が聞こえてきたことです。海岸でもないのに、室内に響く波の音。そしてこの部屋で純くんは、亡きファーレンハイトと話をします。このときに言葉は全て、朗読劇冒頭からファーレンハイトが死ぬまでに一度口にされた言葉たちです。

「海の向こう」は「認めてくれる場所」で、波の音が聞こえていたときはいつだって「死」が近くにありました。きっと海は亡きファーレンハイトに近づける場所だったのです。だから、ファーレンハイトの部屋での会話のあとには三浦さんは「海、行くんでしょ?」と投げかけ、「天国で一緒になれるといいね」と「ラブ・オブ・マイ・ライフ」(別れの歌)のお話をしたのです。

そしてエピローグでは、「しばらくはBL星で生きる」との三浦さんの言葉に、純くんは「僕はしばらくは地球で生きるよ」と返しました。さらりと発せされた回答ではありましたが、この回答にはすごく大きな意味があると思いました。BL星は海の向こう側に存在する「認めてくれる場所」で、純くんはそこには行かず、地球に残ることを宣言したのです。これこそが濃い4ヶ月を経て、純くんがたどり着いたものだったのだと思わずにはいられない一幕でした。純くんが「可能性を探りたい」と前を向けたからこそ、題材に考えさせられながらも、晴れやかな気持ちになる終劇でした。

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