裏路地から森を抜けて湖のほとりで
ブロック塀の上で黒猫が香箱を作っていた。午後の日差しに暖められ、風化していて、静かだった。
路地は影になっていて、外からは様子が知れなかった。
錆びたトタンやら戦前からあるに違いない看板やらを横目に路地に入り込むと、側溝の蓋の壊れたところから、むっと腐った水の匂いがした。
突き当りの塀はもうブロック塀ではなく、黒く時代のかかった木製の塀だった。木製の電信柱には、笠のかかった白熱電球の街灯が昼間からうすぼんやりと点灯していて、木製の塀からのぞける庭木の濃い緑をより暗く濃く映し出していた。道なりにずんずん進んでいくと、何度も何度も角を曲がる羽目になり、ついにはまったく方角の感覚を喪失した。
ばさばさばさと、カラスが不意に飛び立った。見回すともうあたりには電柱はなく、塀も木製ではなく生け垣に変わっていた。相変わらず、迷路のような規則正しい碁盤目状の住宅地の道は、少しずつ下り坂に変わっていった。道の舗装はだんだん風化して、ヒビのところどころ入ったコンクリートの道から、未舗装の、しかし、土ではなく、乾燥した砂地の道になった。
すでに夕暮れていた。
数メートル先の家から女が出てきた。じっと私を見ているのを気にしていないように見せかけながら、すたすたと歩き去ろうとしたが、まさに最接近したタイミングで、声をかけられた。老婆のような声だった。
「危ないよ」
黒い女だった。全身が黒い衣服で固められ、黒目が恐ろしく大きかった。ハットをかぶっていて、それがとても似合っていた。呼び止められて振り返った視線は、彼女の出てきた家を見た。廃屋だった。
声の老いた、しわがれた様子と、その若く美しい黒さとの対比にめまいをおぼえた。目眩は消えなかった。廃屋の奥にはなにか動くものがあった。
「危ないよ、兄さん。寄っておいき。危ないよ」
「なにか、あるのでしょうか」
何年もろくに人と話していないせいか、最初に出た声はかすれていた。恐怖はなかった。むしろ、なにか、とても美しく、ゆたかな気分だった。
「道を抜けると森があるよ。森には怖いものがいるよ。危ないよ」
私はどうしようか迷った。森にはひどく心が惹かれていた。
それ以上、黒い女は言い募らず、その真っ黒な目でじっと私を見ていた。
中から湧き上がる感情があった。
夕暮れは落ちかけ、空は星々と紺色に侵食されつつあった。
「わかりました。では、行きましょう」
そういって私は彼女の腕をとって、向きを変え、歩き出した。冷たさを予期していたが、彼女の腕は暖かかった。
「え、え」
戸惑ったような声がしていたが、私は振り返らなかった。
「行きましょう」
夜が落ちた。
「そう。では、行きましょう」
とうとう彼女が応えた。
懐から、懐中電灯を出してつけた。
組んだ腕を、わたしはますます強く組んだ。
前方には、川と橋があった。
終わり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?