スカーレット狂気1

緋色の狂気と正気、あるいは「目を醒ます」ことをめぐって〔スカーレット〕

さて、今週のスカーレット。
ぽつんと一人ご飯、どこか力のない表情…喜美子の「孤独」がなんともつらい展開になっています。八郎(十代田さん)との再会も、何とも冷え冷えとした辛いシーンとなりました。

なんでこうなった?事の発端はなんじゃ?

って、そう、あれです。すべては、穴窯のなかの緋色に心を奪われた喜美子のあの「狂気」から…ですよね。

炎に魅入られた喜美子の狂気

公式ブログでも戸田恵梨香さんがなんどか言われているように、八郎の反対に対して、「狂気」ともいえるような迫力で、喜美子は猛然と自然釉の成功へと向かっていきました。

もう一度あの火を見たいという喜美子に絶望し、八郎が家を去り、それでもなりふり構わず薪を集める喜美子に、照子は必死に訴えます。「目ぇさませ!目ぇさましてくれ!!」と。

そして、とうとう借金に手を出してまで情熱を燃やし、七日間も火を焚き続けるという(火事の危険さえはらむような)無謀な挑戦。その計画を知らされた八郎は、たまらずこう言います。「僕にとって喜美子は女や。危険な事はしてほしくない。やめてくれ」と。2人の心と心に、埋められない亀裂が走った瞬間でした。

そして、掴みだした成功。
あの、灰をたっぷり被った、
グロテスクとすらみえる
あの魂を揺さぶられる初作品。
たまらない達成感!
いよいよ陶芸家川原喜美子の誕生!!

…しかし、その充実感、達成感、幸福感を、<ちや子への手紙→工房へのちや子訪問>のシークェンスでぎゅっと味わわせてもらったのもつかの間…視聴者はなんとも冷え冷えとした、喜美子の孤独が深まっていく様をたっぷり見せつけられます。

あの「狂気」はなんだったのだろうか…
…と、つい考えさせられてしまいます。

炎に魅入られた喜美子の「正気」――ひとつの覚醒

しかしそもそも、穴窯に向き合う喜美子は、単に「狂気」に埋没していたのでしょうか。
むしろ、あの時期(1969年から1971年にかけて)1回目~7回目の穴窯の挑戦のなかで、むしろ喜美子は、「正気」にめざめたようにも見えるのです。

八郎が出ていくと宣言し、それでも穴窯3回目に邁進する喜美子。身なりも気にせず髪を振り乱して薪を集める喜美子に、照子が言い寄る第16週100回目放送の冒頭シーン。照子は喜美子にこう説得します。

照子「今から八さんに頭下げて、悪いことしましたいうて謝ってき」
喜美子「穴窯やることが悪いことか…」
照子「旦那があかんいうことをやるのは悪いことや。
しゃあないやん、いまはな。喜美子が下がって、八さんを立ててやり」

これに対して、喜美子はこう返します。

「朝起きて、今日は薪を拾いにいきます、って
誰に言う必要もなかってん…
誰に断りをいれんでもよかった…
うち、子どものころはお父ちゃんに、断りいれてた…
やりたいことあったらきちんと話して、
お願いしますいうてきた…
結婚してからは八さんに、
やりたいことあったら、お願いしますいうてきた。
そうやってずっと生きてきた…
子どものころからずっとや。

それが必要なかってん

薪を拾いながらな、立ち上がったら…
冬の風がな、ヒューっとふいて…
そのとき思ってん

ああ、気持ちええなあ…
一人も…ええなあ。

そんなこと思ってしもうてん」

と、少し自嘲気味に笑ったあと、「うちは、八さんがおらんほうがやりたいことがやれる」と言い放ち、作業に戻る喜美子。つい納得してしまいそうな自分を振り切るように、照子は貴美子にすがりつくのです。「あかん、目ぇさませ、目ぇさましてくれ」と。

旦那も子どもも放って、釜焚きの薪を拾い集める女。これ「狂気」と呼ぶのは「世間」。
しかしその世間が「正気」でないとすれば?
むしろ、この場面では、冷静さを失い強引に世間に引き戻そうとする照子こそ「狂気」であり、自分のなかの自由を見つめ、動じることのない喜美子こそが「正気」であるようにも見えます。
少なくとも緋色がもたらしたもの。それはかつて常治にお前はわかっていないといわれた、「世間=社会」からの覚醒であったことは、間違いありません。

さて、3回目が失敗して4回目~6回目。久しぶりの大阪のシーンを挟んで、第17週のはじまりは、爽やかな高揚感のあるシーンが描かれました。それは、借金をしながらも、失敗からひとつひとつ学び、排気口の口を狭め、土の配合をいくつも試し、穴窯での陶器の配列を確かめ、それらをノートにしっかりと書き込みながら、「1150度で7日間焚き続ける」という仮説に至るまでの一連の流れです。

喜美子が何かをつかみとり、達成へと向かっていくあの高揚感。あの凛々しくも愛おしい、喜美子の横顔。冬野ユミさんの柔らかくも気高い(胸躍るポリリズムをも身にまとった)ストリングスのスコアに、いやがおうにも気分が高まります。

そして、ここにもまたひとつの「正気」が描かれています。すなわち、ひとつひとつ計算し、記録し、仮説を試し、修正しながら成功への確率を高めていく喜美子の姿です。着実な努力と積み重ね。才能は天から降ってくるものではありませんし、ましてや狂気にただ身を委ねれば発揮されるものでもないのです。

そうして至った7日間の釜焚き。もちろんリスクもあります。しかし、そのリスクをとって大きな一歩をふみだそうとし、「私が出した答えや。やらしてもらいます」と宣言する喜美子に対して、八郎がかけた言葉は…

「僕にとって喜美子は女や。陶芸家やない」

でした。そして喜美子の答え。

「作品を作りたいです。うちは陶芸家になります」

狂気とは、正気とは…。
「世間」との軋轢、亀裂、分断を生んでまで押し通す喜美子の「意地と誇り」。これを「我が儘」と呼び、不快としてしまう感覚。
なにが、狂気なのか。それが狂気と呼ぶのならばならば、あれは正気といえるのか。

炎に魅入られた喜美子の瞳に、私たちはなにを見出すべきなのでしょつか。もちろん狂気。しかしそれだけ?

ひとつの答えは、自然釉を成功させた喜美子の表情、ちや子への手紙、ちや子の工房への訪問、作品を並べて待つ喜美子…そして、このドラマではじめて採用されたストップモーションで写しだされた喜美子の笑顔−幾重もの不自由のなかから自由をつかみ出したあの笑顔–にあるでしょう。陶芸家喜美子の誕生と成功を味わうに、短くも、十分なあのシーンに。

そして時間は進み、名の売れた喜美子、成長した武志。高校卒業後の進路に悩む息子にかけた言葉はこれでした。

「自分の人生や、自分で決め」

ありふれた言葉です。しかし、喜美子の人生をじっくりみてきた人間(視聴者)からすれば、これほど、説得力のある、力強い言葉はありません。

炎に魅入られた喜美子の「狂気」。それは、ある種の「正気」への覚醒でもあった。こう考えても、決しておかしくないと思います。

そして孤独の先にあるもの――もうひとつの覚醒へ

もちろん、大きな代償もありました。ふと武志がもらした、テレビジョンが来た夜のこと。お父ちゃんがかえって来たとおもった…ぐさりと喜美子の心に突き刺さります。

つい母を傷つけてしまったことを後悔するような、心優しく、母想いの武志。しかし、その進路選択は、喜美子の歩んだ道から意図的に離れるかのように、むしろ八郎の道に接近します。穴窯ではなく釉薬。そして、師として選んだのは、深野のような才人よりも、凡人に道を照らす掛井なのです。

そして、また一人。父たち家族と暮らした家で…

大学から戻った武志に「勉強できなかった母ちゃんに」と、大学生活を語ってもらった夜、喜美子は、信作や照子とともに、高校生になった自分の夢をみます。しかし、これから専門学校へ、というところ、ジョージ富士川にこう言われるのです。

「川原さんはもうこっち側の人間や。
教わるより、教える側の人間や」

布団のなかで目が覚める喜美子。
穴窯との格闘が「孤独への覚醒」であるならば、これは「孤独からの覚醒」であるのかもしれません。

本日、111回目のラスト。あらたな人物が登場します。喜美子の親友となる人、とのこと。そして政治家になったちや子も今週登場、とのこと。これまでになかった、あらたな関係性がうまれ、ただ従うだけの「世間=社会」ではなく、「自分で決めた道がつくる世界=社会」が広がっていくのでしょうか。そこには、喜美子の心を継ぐものもいるはずです。

世間を敵にまわし陶芸家としての成功後、どこか虚ろにもみえる孤独な喜美子の姿。学歴のなさ故の消費社会(=新しい衣をまとっただけのいつもの世間)への取り残され感もまた、しばしば描写されます。

しかしそんな孤独もまた、自ら乗り越えていくもの。

もうひとつの目ざめ=孤独からの覚醒を経て、あらたな喜美子がつくる世界、人の心が、人の心を動かし、また動かされ、そうして作動していく世界を、スカーレットは描いてくれるはず。彼女たちが描く心揺さぶるドラマを、最後まで楽しみにしたいと思います。(了)

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