映画「ハッピーアワー」感想

人に誘われ映画「ハッピーアワー」を5人くらいで観に行った。

3部冒頭の、朗読会の後のトークショウで朗読者の女性小説家とトークするはずだった男がバ(ネタバレあり感想です)ックれたため急遽客として来ていた生物学者(イベンターの知り合い)が登壇することになりトークを始める部分で、自分はあまりのいたたまれなさに膝をかかえこれみよがしに破顔するしかなくなってしまい、隣で観ていた人から「笑いのツボがおかしい」と後で言われたが、「人がいたたまれない気持ちになるシーンを見ていたたまれなくなるアレ」が発動していたのであっておかしかったわけではない。そもそも朗読会の冒頭から「ここにはいたくない……」という気分だったが、朗読中に寝ている客やヘッドフォンをし始める客が映されることでいたたまれなさは緩和されていった(こういった客をクローズアップする演出は助かった)。しかし、朗読が終わりトークが始まるというところで「うわああ助けて」感はピークに達した。生物学者が延々と自分の研究について喋る場面では「そんなことはこの場では求められてないんだよおおお小説の朗読に関係する話をしないとおおお」と相変わらず悶絶していたが、ジェットコースターで言うと頂上には到達済みでもう下り始めているので、もうどうにでもなれというか、これ以上悪いことにならないだろうから安心、という気分であった。

しかしこのトークショウは、結果的には成功した。長めの自己紹介を終えた生物学者は急に朗読された小説の感想・批評をじっくり的確に話しはじめ、それに対し小説家も真摯に応え、話は噛み合った。生物学者は「デキる人」だったのだ。おそらく朗読を聞きに来たお客さんもそれなりに満足したことだろう。これを見て自分は「よかった、この映画がエンターテインメントでよかった……」と心から安堵した。

この映画では、このように先の展開を予想していたたまれなくなるシーンが出てきては、不安的中のショボいことにはならずうまくいって終わる、ということが4度あった。具体的にはワークショップ、ワークショップ後の打ち上げ、前述の朗読会、朗読会後の打ち上げ、の4度である(打ち上げは鬼門である)。いや、朗読会後の打ち上げは最悪な感じで終わったし、ワークショップの打ち上げも後味が良かったわけではない。が、ショボい感じで終わったわけではなく、なんやかんやあって、終わった。

「いたたまれないシーンで悶絶する人」は一定数おり、また悶絶しない人も一定数おり、悶絶する人を未熟な人、または発達障害、病気だと考える人も一定数いるようだ(「"恥をかくシーン"が苦手な人たち」http://togetter.com/li/889708 などを読んだ印象なのでどのくらいの割合かとかはわからない)。また創作物を作る側は、いたたまれないシーン、ショボい感じに進みそうなシーンを意図的に入れ、その場を救うことで受け手に安堵や喜びといったプラスの感情を呼び起こすことはしているように見える。

↑ここまでが2016年に書いた文章で、ここからは2022年に書いている。
上の文章を読んで不思議だと思ったのは「なぜ寝たりヘッドフォンをしたりする客がクローズアップされることでいたたまれなさは緩和されたのか」というところ。普通は「うわーやっぱりショボいことになってるじゃん」ということでさらに気分は沈むのではないか。
しかし事実としては「緩和された」らしく、また2016年当時の私はそれをさほど不思議なこととは捉えていないようだ。不思議だ。からくりを思い出せない。
推測で言うと、朗読会でヘッドフォンをしたり寝たりしているお客さんは少なくともいたたまれなさを感じていないはずで(単につまらないので自分の意志に従って行動している)、彼ら彼女らがいたたまれなさを感じていないならいいじゃん、という判断なのかもしれない。

もうひとつ不思議に思ったのは、朗読会後の打ち上げが最悪な感じで終わっても、「救われている」と表現していることだ。自分はとにかく「ショボいことになる」ことを怖れているらしく、険悪になるとか誰かが気分を害して帰るとかは全然OKなようだ。この辺の感覚ももはや思い出せない。ただやはりさっきと同じだが「自分の意志に反してここにいる」「打ち上げやるらしいから、行きたいわけではないが流れだから行く……」みたいな人がいっぱいいることがいやなのだろうと推測はできる。ここにいたくないなら帰るし、怒りたいなら怒るみたいな人を見るとそれは自分にとって安心材料になるのだろう。

2016年に書いた記事では、このいたたまれなさについてしか触れられていない。よほどきつかったのだろうと思われる。しかし、今この6年前に観た映画のことを思い出そうとすると、そのきつさについては全然思い出せない。時の流れを感じる(置きにいった文章)。

とはいえこの映画は別の側面で印象に残っていて、長い映画だが、全体の流れをなんとなく覚えており、今でもいろいろなシーンをありありと思い出せる、気がする(キャラクターの名前は全部忘れた)。
この映画のことを思い出そうとすると頭に浮かぶセリフがいくつかあって、「とっくに飽きてます」と「計算も、合います」と「まだ死にたくない」である(ちょっと違うかもしれない)。また、シーンでは出勤する男がうずくまって泣くシーンがまずぱっと思い出される。なんかぜんぶ男性の挙動である(あと今「ナースはもうこりごりだ」的なセリフも浮かんできた)。
この映画は四人の女性が主人公格の映画なので、男性は全部脇役なのだが、思い出されるのは男性の挙動ばかりで、いま女性の挙動を思い出そうとしても、セリフとかは全然思い出せない。何をしたとかは映画の筋として覚えてはいるが……。なぜだろう。

おそらく自分はかなり男性側の立場でこの映画を観ていたのだろう。この映画に出てくる男性はかっこよくなく、憧れる対象でなく、アホ・頑固・自分勝手・ダメ、という形容がまず浮かんでくるような感じだったと思う。例えば大泉洋が情けない男を演じたとして、それは憧れ得る形での情けなさだと思うが、この映画の男性は「こうはなりたくないな(けどなっちゃいそうだな)」というリアルさがあった(あと女性陣の演技に対して、男性陣の演技が総じて棒気味だった気がする)。

こういった男性陣に親近感を(感じたくないながらも)感じ、女性陣を「なぜこの四人が仲が良いのかわからない(いろいろあったのだろう)」「なぜその人と結婚したのかわからない(いろいろあったのだろう)」と、なにかよそよそしく感じている、というのが、男性のセリフばかり覚えている自分、の説明としてしっくりは来ている。

とかなんとか書いているが、なにぶん6年前に観た映画なのでなんか全然そういう映画じゃなかった気もするし、長いけど飽きなかった面白い映画だったなという思い出もあります(クラブのシーンのみちょっと飽きた)。

この映画の監督が「ドライブ・マイ・カー」などいろいろと映画を撮っているので観たいなと思いました。


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