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小説|不思議の国のカギ(23)最終話

翌日。
アリスが旅支度を整えて広間に顔を出すと、すでにご馳走が目の前に用意されていた。
そういえば、前にもこんな事があったなぁと思いながら、アリスは椅子に座る。
白ウサギが最後の料理をテーブルに置くと、三月ウサギが元気良く手を合わせた。アリスもそれに倣う。

「いっただきまーす!」
「頂きます」

アリスは始めに、野菜のたっぷりと入ったスープを啜る。体の芯から温まっていく感覚がした。味はシチューに似ているが、所々に不思議な味わいも混じっていて、アリスはけっこうこのスープが好きだった。
他の料理も現実世界では食べたことのない味のものばかり。きっとこの国独特の調味料を使っているのだろう。
それでも、どれもとても美味しかった。
「ご馳走さま」
アリスがそう言って手を合わせると、三月ウサギが彼女の前に包みを差し出す。

「……これは?」
「中におにぎりが入ってるから、旅の途中でお腹が空いたら食べてね。僕が作ったから、ちょっと不恰好だけど」

冗談っぽく笑う三月ウサギに、アリスもつられて微笑んだ。

「ーーーー……ありがとう。大事に食べるね」

包みを受け取って立ち上がると、広間の奥から白ウサギが姿を現した。アリスは壁に飾られている振り子時計を確認する。
……もう出発する時間だ。

「…………じゃあ、私行くね」
「うん。死の森までは白ウサギが案内するから安心して?」
その言葉に違和感を感じて、アリスは小首を傾げる。
「……三月ウサギは?」

アリスが指摘すると、三月ウサギは困ったように笑った。

「僕、あんまりしんみりしたお見送りが好きじゃなくてさ。ここでお別れにするよ……元気でね、アリス」

アリスも三月ウサギの気持ちを汲んだのか、ふわりと微笑んだ。

「うん。三月ウサギも元気で」

アリスは別れの言葉を残し、白ウサギの後を追う。穴に備えられた扉が閉まる最後の瞬間まで、三月ウサギは笑顔で手を振っていた。
三月ウサギがしんみりしたお見送りが好きじゃないというのも本当の事なのだろう。でも、何となく自分に気を使ってくれている気がして、アリスはそんな三月ウサギの言動が少し嬉しかった。
アリスの前にはいつも、白ウサギの後ろ姿がある。そんな、当たり前のようで当たり前ではなかった光景を、アリスは一つ一つ、大事そうに目に焼き付けていく。

「ーーーーアリス!」
「…………?」

急に名を呼ばれたアリスが、視線をそちらに目を向けると、丘の下からこちらに手を振る小さな影がたくさん見えた。
「アリスーー!!」「ありがとー、アリスっ」「元気でね!」「さよならーっ」「アリスーっ!!」
幾つもの声が丘に木霊する。不思議の国の住人達がアリスにそれぞれの言葉を投げ掛けていた。
たくさんの笑顔がこちらに向けられているのを見て、アリスが自分の瞳が潤むのを感じる。
多くの痛みを伴い、傷つき迷って選んだ道だけど、こんなにたくさんの人の幸せを、守る事が出来たんだーー。
アリスは言葉の変わりに彼らに大きく手を振り返した。

「…………アリス」

アリスと一緒に住人達を眺めていた白ウサギは、手に持っていた時計を見ると、彼女に向かってそっと呼びかけた。
それに気付いたアリスは、濡れた目をそっと拭って無理矢理笑う。

「……ごめ、…………行こっか」

少し名残惜しい気もするが、時が迫っている。出発した時には東にあった太陽が、いつの間にか空の頂上に昇ろうとしていた。
……死の森の入り口に辿り着いた所で、白ウサギは足を止める。
彼がこちらを向くのを辛抱強く待って、アリスはゆっくりと口を開いた。

「……白、ウサギ」
「……………………」
「……色々、ありがとね。……私、白ウサギが居なかったら、今、きっと生きてない。……それと、…………言い付け破ってごめんなさい」

アリスは手のひらをぎゅっと握った。
子供の頃の事を白ウサギが覚えてるかは分からない。けど、あの記憶を思い出してから、ずっと謝りたいと思っていた。
でも同時に……言い付けを破って良かったと思う自分もいるのだ。
あの事件があったから、自分は不思議の国の住人に出会える事が出来たのだからーー。
……何か言ってくるだろうという予想とは裏腹に、白ウサギは無言のまま、握った手をアリスの手のひらの上に重ねた。
戸惑い気味にそれを受け取ると、アリスの手の中には、 見覚えのある物だけが残された。
「…………これって……」
それは、アリスが不思議の国に来た時に髪に付けていた代物だった。
「……落としていったから、預かってた。お前に返す」
「……ーーーー」

暫くそれを見つめていたアリスは、そっと目を伏せると小さく首を横に振った。

「…………これは、白ウサギに持ってて欲しい……」
「………………」
「代わりに、その時計が欲しいな……。ダメ…………?」

白ウサギは自分の古ぼけた時計を見て、何とも言えない表情になった。

「……別に構わないが、これはお前の世界では使えない」
「それでも良いーー」

アリスの語調に何かを感じたのか、白ウサギはそれ以上追及することなく時計を差し出した。
それを受け取ると、アリスは大事そうにそれを抱える。

「ありがとう……。大切にするね」
「ーーーー……」

無言でそれを見ていた白ウサギはふと、アリスを自分に引き寄せた。アリスの体は彼の腕の中にすっぽりと収まる。

「……アリス」

白ウサギは、アリスの頭に片手をふわりと乗せ、自分の顔を見せないように更に自分に引き寄せた。

「……俺は、……お前が "アリス" で、本当に良かったと思ってる。……この国に来てくれて、ありがとう……ーー」

優しい白ウサギの声音に、アリスは耐えきれずに顔を歪める。
両目から涙が溢れ出した。
痛い、苦しい、寂しい……。
本当はもっと、もっとずっと、一緒に居たい。
でも……ーーーー。
ゴーン、ゴーンと不思議の国の時計塔の鐘が鳴り響く。

「……『鐘の国』の扉は12時を過ぎると開かなくなる。……もう行きな」

白ウサギがそっと背中を押す。
アリスは、何か言いたげにこちらを振り返ると、不安げな顔で問いを投げ掛けた。

「…………また、会える……?」

アリス達には予感があった。
これが過ぎればもう二度と、会う事は出来ない。これが、本当に最後の別れなのだと。
でもそんな予感を打ち消すように、白ウサギはアリスに向かって柔らかく微笑む。

「ーーーー待ってる」

それで、十分だった。
涙を拭いたアリスは、白ウサギに向かって微笑み返す。そのまま、今度は振り返らずに走り出した。暖かな太陽がアリスの背中を押すように輝き、不思議の国を照らす。
アリスの新たなる旅が今、始まったーー。

* * *

ハートの女王の城にある広い庭の中で、ハートのジャックはいつものように薔薇に水をあげていた。その横に、何故かハートの女王の姿もある。
今日はアリスが不思議の国を出ていく日だというのに、朝からずっと薔薇園を眺めていた。
いや、もしかしたら、だからこそここに居るのかもしれない。
今までのアリスが白ウサギに殺された時も、ハートの女王は寂しさを紛らわすようにここに居た。
アリスは死んでも甦らないのに……。
そんな彼女に、ハートのジャックはいつも同じ言葉を投げ掛けるのだ。

「…………心配しないで、ジャック」
「えっ……」
思わぬ彼女の言葉に、彼は目を見張る。この状況下でハートの女王から口を開くのは初めての事だったのだ。

「……あの子は死んだ訳じゃないもの。少しの間だけ、私のおもちゃが居なくなるだけよ」
「………………陛下……」

無理に気丈に振る舞おうとするハートの女王の姿が何となく居たたまれなくて、ハートのジャックは以前と全く同じ言葉を口にした。

「……戻りましょう、陛下。お食事を用意して参ります」
「……………………」

その言葉には返答をしない。だが、ふっ、と自嘲気味に笑った後、諦めたようなため息をついた。

「…………結局振り回されるのはこっちなんだから」

そう小声で言った彼女の瞳は、すでに迷いが消えていた。

「あーあ、バカらしい。……ジャック、戻るわよ」

立ち上がって、いつものように壮大に言い放つ。
ジャックはただ、ハートの女王に対して一礼した。

「お腹が空いたわ。あのショートケーキが食べたい。フルーツたっぷりのやつね」
「かしこまりました。只今ご用意致します」
「出来上がったら、私の部屋に持って来なさい。それまでは、紅茶か何かを……」

我が儘姫と従者の声が庭園から離れていく。暖かく花々を照らす日差しに対し、涼しく吹き付ける風が秋の訪れを知らせてくれる。
誰も居なくなった庭では、新たな息吹を蕾に秘めた2本の綺麗な赤い薔薇が、今まさにこの不思議の国に咲き誇ろうとしていたーーーー。

END.

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