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小説|不思議の国のカギ(20)

闇が支配する森を、アリスは脇目も降らずにひた走る。昨日は闇雲に扉を探すだけだったけれど、今は自分の直感がこちらだと訴えてくるのだ。
「……………………」
アリスは一度だけ、後ろを振り返った。最後に見た白ウサギの背中が頭から離れない。

『…………を…………め……』

瞑目すると、脳裏を一瞬だけ過る姿がある。彼もまた、同じように自分に背を向けていた。
「……大丈夫、だよね」
……それは何に対して言った言葉だったのか。その答えはないまま、アリスは頭を振って再び走り始める。
チャシャ猫が死ねば『鍵』がいるはずの"もう一つの世界"へ繋がる扉が閉ざされる。
そうしたら二度と、『鍵』を見つけ出す事が出来なくなってしまう。その前に見つけ出さないと。
「……はぁ……はぁ……」
元々体力のないアリスにこの泥濘んだ地面はなかなか厳しい。
でも、諦めるわけにはいかなかった。
皆が、自分の為に戦ってくれたんだから。
アリスは必死で走り続けた。

あと、少し。もうちょっと。
あの木の向こうに。

「………………っ」
ーー瞬間、アリスの視界に光る扉が飛び込んできた。この森で一番大きな木の幹に、その扉はあった。
この光が消えてしまったらきっと、この扉も消えてしまう。
アリスは懸命に手を伸ばした。
お願い、届いて……。
「……お願い、……っ」
届け……ーーーー。

アリスの手がドアノブに触れる。必死でそれを引き、扉を開ける。
「ーーーー……」
アリスの体が扉の奥に吸い込まれると同時に、光が扉を包み込み、扉ごと収縮すると、ぱんと音を立てて弾け飛んだ。
誰も居なくなった森に、雨が寂しく降り注いだ。

* * *

真っ暗闇の中に放り出されたアリスは、地面と思われる場所を手で触って感触を確かめる。
土の感触ではないし、かといってコンクリートでもない。全く異なる別次元にいるんだと悟って、そろそろと立ち上がった。
闇の森で目は暗い所に慣れていると思っていたけれど、この空間はそれよりもさらに深い闇だ。
自分が何処にいるかも分からなくなってしまいそうだ。
「……『鍵』は何処に……」
「ーーここだよ、アリス」
はっとして声のした方に顔を向けると、ぱっと明かりが灯り、『鍵』の姿を浮かび上がらせた。
アリスは慎重に『鍵』のほうへ足を進める。2メートルほどの距離を保って立ち止まった。
そんなアリスを見て『鍵』はゆっくりと微笑んだ。
「……やあ、よく来たね」
「……………………」
警戒を止めないアリスに『鍵』は笑みを深めた。クスクスと声を出して笑う。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。僕は白ウサギやチャシャ猫と違って能力は持ってないから」
そう言って手をひらひらと振ってみせる。だがアリスは、警戒を解かなかった。彼が嘘を付いている事に、気付いてしまったから。
「……貴方が『鍵』だとは思わなかった」
「そう?君は気付いているんだと思ってたけど」
アリスは『鍵』と呼ばれている青年の顔をじっと見つめる。この青年は、現実世界で箱の中から出てきた、あの青年だった。
自分を不思議の国へ導いた人物。
「……………………」
アリスはそれきり口を閉ざしてしまう。それを見ながら『鍵』はゆっくりと口を開ける。
「ーーーー見てたよ」
「……………………」
「まさかチャシャ猫が原因だったなんてね。チャシャ猫は昔から策士な所があったけど、僕も利用されてたとは思わなかったな」
アリスの瞳が震える。それを見て『鍵』は目を細めた。
「……それでも、僕が君達にしたことは変えられない。…………君は僕を憎んでるんだろうね」
アリスはぐっと口を引き結ぶ。
違うと言いたいけれど、意に反して言葉が出て来ない。
それはきっと、多少なりとも『鍵』の事を許せないと思ってる自分がいるからだ。
「………………」
アリスが何も話さないので『鍵』は再び口を開く。すっとアリスの手を指差した。
「どうしても僕を許せないのなら、君が持っているその弓矢で僕を殺しても構わないよ」
はっとしてアリスは自分の指先を見る。自分の手が弓をぎゅっと握り締めていた事に気付いて、その手をぱっと離した。支えるものが何もなくなった弓は、虚しく下に落ちていく。
「……ーーーーアリスは孤独でなければならない」
急に口調が変わった『鍵』の言葉に、アリスは顔を上げる。『鍵』は静かな瞳でアリスを見つめていた。

"アリスは孤独でなければならない。別の世界からこの国に全ての住人も、同じく孤独でなければならない。でも住人達は皆、最初から孤独な状態でやってくる。
生まれた時に親に捨てられた者。親が事故で死んでしまった者。皆孤独でやってくる。
だが、アリスは違う。無理矢理こちらに連れてきたアリスは、皆が両親と暮らす幸せ者。
不思議の国には孤独な者しか入れない。
だからこそ、その幸せを壊す必要がある。
幸せアリスに悲しみを、孤独を、憎しみを…ーー"

『鍵』から発せられるその言葉は、まるで呪いの歌のようにアリスの胸に突き刺さる。
対する『鍵』は事実のみを淡々と語り続けた。
「ーーーーだから僕は、君の両親を殺した」
ドクンとひときわ大きく心臓が鳴る。アリスは胸を押さえた。
ガンガンと頭の奥に響くものがある。忘れてしまえと思って、そのまま記憶の奥深くに封じ込めていた光景。
『ーーーー……て、……ごめん……』
幼いアリスの正面に立つ、少年の悲しげな瞳が脳裏に浮かび上がる。
ーーあぁ、そうか。彼はやっぱり……。
アリスは俯いて肩を震わせた。
「……君は、僕を憎んでいるんだろう?」
『鍵』は再びアリスに問いかける。静寂が辺りに降り注いだ。
「……………………」
暫く無言で佇んでいたアリスは、ゆっくりと顔を上げると『鍵』を真っ直ぐに見つめる。その瞳は光を失ってはいなかった。

「ーーーーいいえ」

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