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小説|不思議の国のカギ(19)

そこから暫く歩いた所で、チャシャ猫の膝が崩れる。
それでも何とか立ち上がろうとするチャシャ猫の視界に、チカチカと光る物が目に映った。
目を細めて、それが何なのかを確かめる。暗闇に慣れているチャシャ猫の目は、その正体をハッキリと認めた。
「…………アリス……」
十数メートルほど離れた所で弓矢を構えたアリスが、矢の先をこちらに向けている。そして自分の後ろには、片手で剣を持った白ウサギの姿が映った。
「………………ち……っ」
チャシャ猫は必死で立ち上がった。だが、それでもすぐに膝が崩れる。
それを認めたアリスが矢を放つのと、剣を構えた白ウサギが地面を蹴るのは、ほぼ同時。
「……………………っ」
それを両目で見ていたチャシャ猫は、最後の一瞬だけ、白ウサギに全神経を傾けた。チャシャ猫の瞳に映る赤い瞳に迷いがないのを見て、チャシャ猫はぐしゃぐしゃに顔を歪める。
「……ーーーーーーっ」
グサッと、肉を貫通する音が静寂の森に奇妙に響いた。

「……か、……は…………っ」

チャシャ猫は苦痛に顔を歪める。ごぼっという音とともに、血玉が口から溢れ、それが地面で弾けて血飛沫が飛び散った。
アリスの放った矢がチャシャ猫の心臓を射ている。腹部には白ウサギが背後から刺した剣の先端が突き出していた。
チャシャ猫は胸に刺さった矢を無理矢理引き抜くと、そこから流れ出す鮮血を気にもせずに、その矢を見つめた。
「……さっきの、言葉……、訂正……しなきゃ、……な…………」
この場から逃げないと言い放った彼女に、チャシャ猫は冷酷に告げた。
『ーー君じゃ俺は殺せない』
……そう、思ってた。でも……。
「…………やるじゃ、ないか……」
はっとアリスが息を飲むのが伝わってきた。チャシャ猫は音もなく笑う。
白ウサギが背中に刺さった剣を引き抜くと、その体は抵抗もなく地面に倒れる。うつ伏せの状態で横たわるチャシャ猫の喉からはひゅうひゅう風の音が漏れた。
「…………アリス」
剣を鞘に収めた白ウサギがアリスに顔を向ける。アリスも黙ったまま白ウサギを見返した。
「後は俺に任せて、お前は『鍵』の所に行け。……もうすぐ扉も消える」
その意味をアリスは正確に理解した。だが不意にその視線が横にずれ、アリスは戸惑い気味に口を開く。
「でも、ディーとダムが……」
白ウサギが視線だけを双子のいるほうにずらす。
地面に横たわった双子は、そこからピクリとも動かない。
「双子はあいつらに任せろ」
「え……?」
アリスが首を巡らすと、森の茂みの奥から三月ウサギと眠りネズミが現れた。白ウサギが三月ウサギに配目する。それで全てを把握した三月ウサギは、眠りネズミと協力して双子を抱き上げた。
三月ウサギがアリスを見て穏やかに笑う。
「ーーーーアリス」
白ウサギがもう一度、名を呼んだ。アリスは何かを我慢するように口を横に引き結ぶと、一つ頷いた。
「ーーーー……行ってくる」
それを言うのが、精一杯だった。あとは何も言わず、踵を返して走り出す。
それを見送った三月ウサギは白ウサギに向き直った。
「じゃあ、僕らは先に戻ってるから……」
「……あぁ」
こちらに背をむけたまま答える白ウサギの雰囲気が何となく悲しげに見えた。だが三月ウサギは何と声をかけて良いか分からず、ただただ無言でその場を後にする。

「……………………」
白ウサギとチャシャ猫だけが残された空間を途端に静寂が包み込んだ。聞こえるのは空から降りしきる雨音だけ。
『ーー珍しいよね。不思議の国に雨が降るなんて』
脳裏に甦るのは、そんな他愛もない会話で……。
自分はそれを、少し呆れ顔で聞いているのだ。
この広い世界でほぼ同時に産まれ、同じ能力を持つ唯一の同胞。
毎日飽きもせず自分の後ろをついてくるこの小さな影を、少し面倒くさく感じた事もあったけれど、同じくらい……嬉しかったのを覚えている。
その影が自分の後ろから消えてしまったのは、一体いつからだったろうか。
「……ーーーー俺は、」
唐突に白ウサギは口を開く。その声は静かなものであるのに、チャシャ猫の耳には良く響いた。
「……お前を、…………こういうのが友達なんだと、思ってた……」
今まで反応のなかったチャシャ猫の指がピクリと動く。しかし、下を向いていた白ウサギはそれに気付かない。
「だから、俺は……」
「……………………俺は、さぁ……」
白ウサギはのろのろと顔を上げ、チャシャ猫を見た。チャシャ猫は喉に力を入れて必死に声を絞り出す。そうしなければ、震えてしまいそうだった。
「……白ウサギが居たから、この世界で、今まで生きてこれたと、思うん、だ……」
それは、偽りのない本音。
この雨が自分の汚い部分を綺麗に洗い流してくれているんだと思うくらい、素直な気持ちが自然と口から溢れた。
こんなくだらない世界がキラキラして見えたのはきっと、自分を見ててくれる存在が常に側に居たから。
だから……ーー。
「……ご、ほ……っ」
チャシャ猫が苦しげに咳をする。その度に鮮血が散った。
もう、息をするのもツラい。
「本当は、俺、……この国が、大っ嫌いだから、さ…………」
そうかと呟いて、白ウサギは瞳を揺らす。
……この、どうしようもない違いはどうして生まれてしまったのだろう。
お前が全然素直じゃなくて、いつも余裕な顔して笑ってるけど、本当は一番弱くて脆い奴だって、一緒にいれば誰だって分かるのに。
白ウサギは揺れる瞳でチャシャ猫を見つめる。
お前ももっと、楽に生きられたら良かったのにな……。
「でも、俺は………………こんな、どうしようもないこの世界が、………………けっこう好きだ」
自分を必要としてくれる、時に阿呆らしく見えるあいつらが居る、この世界が。
「……………………」
チャシャ猫は、白ウサギの顔を見ようと、最後の力を振り絞って首を動かした。ぼんやりとしていた視界がハッキリとして、その人物を捉える。
そこでは、自分が唯一友達だと認めた少年が、穏やかに笑っていた。
「…………っ、は……っ」
それに対し、チャシャ猫は小馬鹿にしたように笑う。
「だから、…………言った、ろ。白ウサギ…………」
懸命に話すその声は段々と途切れ途切れやななっていった。語尾が掠れ、息も絶え絶えで、瞳からは徐々に光が失われていく。
「……お、前の笑顔は…………、……気持ち悪いん、だ……よ…………」
最後まで言い切ると、それが合図かのようにチャシャ猫の瞼がすぅっと閉じられる。
今まで背中から流れていた出血が静かに止まった。
白ウサギの肩が震える。だが、その瞳は真っ直ぐにチャシャ猫を捉えていた。
「ーーーーそう、だったな……」
寡黙な自分がたまに笑うと、彼は驚いたように目を丸めて自分に言うのだ。
『白ウサギは笑っちゃだめだよ。もー、心臓に悪いんだからー』
本気で迷惑そうにしながら、その中にほんの少しだけ、冗談めいたものも混じっている声音で。
産まれてから何百年もの間、たった2人だけで生きてきたのだ。
他の住人とは比べ物にならないくらい、特別な存在。
だからチャシャ猫の言動が狂っている事に気付いても、何も出来なかった。
チャシャ猫は死を望んでいたのに……。
だから、もうこの苦しみから解放してやるから。だから、今度は、……ーーーー不思議の国が好きになって、産まれてくれば良い。
「…………………………っ」
降りしきる雨が白ウサギの前髪を濡らし、それが彼の表情を隠してしまう。ぐっと握った拳に、更に力がこもった。
この場所には、白ウサギ以外誰もいない。
だから、彼の頬に雨とは別の何かが滑り落ちている事に、気付く者は誰もいなかったーー。


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