何者にもなれなかった人間の幸福
僕の住む街には老舗の写真館がある。
ショーウィンドウには少女の七五三の写真、新婚夫婦の写真、長年連れ添った夫婦の仲睦まじい写真などが置かれ、この街に住む人々の記憶が染み込んでいる。
母親はよくアルバムを取り出しては幼少期の頃の自分や妹の様子を思い出しては慈しみ、今は亡き祖父が写っているのを見ては懐かしんでいる。
写真は過去をその中に内包するという機能がありましょう。日々アップデートされる膨大な記憶によって刷新されていく古い記憶は日々抜け落ちていく。人が本当に死ぬ時は誰も思い出す人がいなくなった時なのだ。だから、今、この現代社会で生きながら死んでいる人がきっといる。話が若干逸れたが、自分が撮りたい写真はきっと、自分が生きていた時に美しかった世界を残しておく、という感覚に近いのかもしれない。
また絵空事を…と思うし、ひどく曖昧な表現になってしまった。芸術家気取りか!
はっきり言って自分は写真は上手くないと思います。それでも撮り続けたいと思うほどに写真が好きだし、自分なりに納得できるように上手になりたいと思うけれど。(上手ってなんだって話だが。)きっと万人に受けるようなプロとしてのカメラマンにもなれないし、アーティスティックな作風の写真家にもなれないし、そもそもカメラで食べていこうと思っていない。インスタも細々とやっているが別にフォロワーが増えて欲しいとも思わないし(もちろん見てくれたらとても嬉しいです)、有名なモデルさんを撮影したいなどと言った野心もない、とんだ無気力野郎でございます。
そんな人間が写真を語るな!と自分でもツッコミを入れたいところですが、ただ漠然と思うのは、いつか自分が残した写真を見てこんな素敵な瞬間があったんだと周りの人に思ってもらえて、いつか自分が死んだ時は自分の撮った写真で棺桶いっぱいにして燃やして欲しい、ということくらい。統一感も何もないからゴチャゴチャした棺桶になりそうだなぁ、でも何年生きるか知らないけど何十年か分の美しかった世界が詰め込まれた棺桶はツタンカーメンもびっくりの代物になるだろうなぁ、とか考えてしまいます。
話は戻りますが、ここで高らかに掲げます。僕は「周りの人、あるいは自分にとっての街の写真館」になりたい。
僕は偏屈な人間だし、性格だってよくない。だから周りにいてくれる人たちを大事にしたい。誰に見せるでもなくパソコンに知らない写真が溜まっていてもいい。写真を続けるのに大義名分やらもっともらしい理由づけも要らない。ただ自分の理由のために写真を撮り続けたいと思っている。平たく言ってしまえば日常を切り取る、ということですが、そう言ったスローガンを掲げている人たちも結局は街撮りでそれっぽいロケを探して、ポージングの指示やら立つ場所の指示やらしているだろう。それは極論、日常を切り取るということにはなっていない。そもそも見知らぬモデルさんを撮っている時点で日常なわけがない。日常風でしょう。ミラノ風ドリア的な。
街の写真館だってバリバリにポージング指示するじゃないか、と暖かいツッコミありがとうございます。まあこれは一種の比喩でして、人々の記憶の貯蔵庫的な意味合いでございます、日本語が不自由なもので失敬。
「撮らない写真」と言えば、いわゆるポートレート、ということになっていくのでしょうね。ミスコン撮影的なものとか、芸術っぽい作品撮りとか。暇人なのでお金くれるなら承りますが、こんなしがない大学生に頼む方も世界中探して一人か二人が関の山なので… 自分から頼んでっていうことはないだろうな、ということ。
逆に言えば、物撮りも風景もスナップポートレートもやるということになりますね。ここまで見切り発車で書いていて自分のルールにしようと思ったことが一点見つかりました。ちゃんと見つかりました一安心。
というのも、「なるべく動かそうとしない」ということです。
例えば、友達と散歩したとします。友達のことはパシャパシャ撮ってるわけです。それでも撮影という行為の全てが散歩の延長線上にないといけないのです。立つ位置やポーズを指定するでもない、スマホをやるならやってていいし、別にマスクもしてていい。ただ相手が赴くままに動くその瞬間を切り取っていく。これが僕の考える究極の日常の切り取り方だと思いました。きっとこれはすごく技術のいることだし、多分僕の腕ではろくな写真は撮れないでしょうね。別に人気も名誉も何も要らないです。遊んで帰って、僕から送られてきた写真に「いいね!」って思ってもらえればそれでいいんです。
だから僕は「切り取る」センスとレタッチが上手になりたい。この二つの技術がきっと特に必要だと思うから。
棺桶に並べて恥ずかしくない程度の写真は撮れるようにならないといけないですね。
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