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aikoのスーパークレイジーソング「カブトムシ」はなぜ夏の終わりに沁みるのか

夏は大っ嫌いだけど、夏の終わりは好きだ。

軽めの貯水ができるくらいの汗も、全身の毛穴を犯されるような暑さも、反吐が出るほど嫌いだったはずなのに、あの感覚は一年さきまで体験し得ないものだと覚悟をするとき、どこか口惜しい気持ちになる。

秋冬の待っている歳月に向けてひとまず終わる夏に感じる情緒は、折々と四季がおとずれる日本に住んでいる人間だからこそ持っている感覚のジャンルなのかもしれない。年がら年中極寒のアイスランドや、赤道直下の熱帯域に暮らすひとにはきっと理解できない趣なんだろう。そう思うと、すこし得した気分になる。

「夕立の雲もとまらぬ夏の日の かたぶく山にひぐらしの声 」と詠った式子内親王の歌にもあるように、日本の夏の終わりは古来より和歌に詠まれてきた。その系譜はいまでもしっかりと引き継がれており、今日のJ-POPでも夏の終わりソングというカテゴライズはしっかりとできる。

たとえば直太朗。タイトルをして「夏の終わり」といってのける。暑さがきえていくかのような涼しげなファルセットは森山直太朗の唯一無二の歌声であり、「夏の終わりソングといえば!?」みたいな無茶振りをされて回答するひともきっと多いはず。

たとえばZONE。「君と夏の終わり 将来の夢 大きな希望 忘れない」、サビでこれでもかとたたみ掛ける体言止めの手法で、まだあどけない少女たちが10年後の8月まできっと忘れることはないんだ!という決意を表明する勇気が上手に表現されている。

たとえばユーミン。名曲「Hello, my friend」でうたいあげたのは、弱い女性の強くある美しさ。別れ路をゆく女性がハローと語りかけるとき、もっとも力強く、それでいて淡々と歌うサビのメロディは「悲しくて 悲しくて」だった。その強さと弱さの対極にある耽美な比率は、松任谷由実の骨頂とも言える。

たとえばWhiteberry。「JITTERIN’JINN」のカバーで知られる「夏祭り」には、歌詞の随所に五感で感じる夏の終わりが記されている。〈君の髪の香りはじけた〉〈浴衣姿がまぶしすぎて〉〈夢中になって袖が濡れている〉〈綿菓子〉〈ざわめきが少し遠く聞こえた〉。嗅覚、視覚、触覚、味覚、聴覚、お手本のような歌詞である。

そんななか、恋する自分の気持ちをかぶとむしに喩えてみせた変人がいる。ドスケベ横顔クィーンの称号を持つ恋愛ジャンキーことaikoだ。

代表曲「カブトムシ」はいまでも支持される褪せない魅力があり、個人的には女子にカラオケでうたってほしい曲ランキングで上位にランクインする。

女子がもっとも気味悪がるモノの上位に食い込む「虫」を自分と重ねるあたりがaikoのドスケベさなのだが、この歌のあざとい本質はaikoの価値観と表現手法における極めて高い文芸性にある。

aikoの「カブトムシ」は、体温からはじまる。

悩んでる身体が熱くて 指先は凍える程冷たい
「どうした はやく言ってしまえ」 そう言われてもあたしは弱い

のっけから、じつはこの歌は夏の終わりの歌ではない。身体のなかは熱くても、表面の指先は冷たい、季節のころで言えば秋ごろの歌である。外気は寒いが、身体は熱っている。その体温の乖離が、恋に悩む女心の揺れ動く気持ちを表現しており、それが後述するこの歌が「カブトムシ」であることにもリンクしている。

あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて
想像つかないくらいよ そう 今が何より大切で…

死と加齢を引き合いに出して恋人との瞬間を尊重するのは、ポップソングにありがちな「あなたがいないと生きていけない」系の漠たる不安よりもよっぽど現実味があって、そのぶん生々しい。この段階ではまだ二人の距離や関係性は明確ではなく、まだなにを言っているのかわからない読み解きしかできないが、ここから歌詞は急展開でドスケベaikoの真髄をみせる。

スピード落としたメリーゴーランド 白馬のたてがみが揺れる

1999年のこの歌を書いたaikoは二十代前半。出逢うものすべてが新鮮だった幼少期も、みるものすべてがめまぐるしく変わっていった思春期もすぎて、成人を迎え、おんなじことの繰り返しが際限なくまわっていくのが、いちばん楽しい年頃でもある。まるでメリーゴーランドみたいな恋人との生活が、ゆっくりとスピードを落としていく。そのとき揺れる白馬のたてがみは甘い匂いがして、だんだんと自分がカブトムシのように引き寄せられていくのを自覚する。

aikoの文芸性が突如として発揮されるこのフレーズに、二人の楽しい日々が終わることが暗喩されている。

少し背の高いあなたの耳に寄せたおでこ
甘い匂いに誘われたあたしはかぶとむし
流れ星ながれる 苦しうれし胸の痛み
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう

サビの一節で、二人の距離感、そして身長差まで提示するこのスケべさ。自分をかぶとむしに喩えるスケべさ。身長の低いaikoは、きっと「少し背の高い」彼におでこを寄せていると、自分が樹にとまったかぶとむしのように感じたのだろう。 Aメロの死生観がキラーフレーズ「生涯忘れることはないでしょう」につながってくる顛末も味わい深い。ドスケベ横顔クィーンならではの表現である。

2クール目でaikoは、感覚という感覚を使って四季をうたう。

鼻先をくすぐる春 リンと立つのは空の青い夏
袖を風が過ぎるは秋中 そう 気が付けば真横を通る冬

春は嗅覚、夏は視覚、秋は触覚、気づけば冬も間近である。五感を使うのはJITTERIN’JINNの「夏祭り」が代表的だが、季節ごとに器官を変えて表現するaikoの文芸性はもはや詩人である。

息を止めて見つめる先には長いまつげが揺れてる

aikoを詩人だと言わしめるのは文芸性のみではない。直接的な距離の表現を一切排して「まつげが揺れてるのがわかるくらいの近さ」を表している。もはや、息をとめないと壊れてしまいそうな様子さえも目に浮かぶし、それが二人の現在の実情だと思うと、痺れるくらい切ない。

少し癖のあるあなたの声 耳を傾け
深い安らぎ酔いしれるあたしはかぶとむし
琥珀の弓張り月 息切れすら覚える鼓動
生涯忘れることはないでしょう
生涯忘れることはないでしょう

「弓張のつるがにはなす宿りかな」と鬼貫が詠んだように、弓張月は秋の季語である。「カブトムシ」というタイトルにしてしまうと夏の歌だと思われると考えたのか、aikoは「あたしが惹かれてるのは夏の月じゃなくて秋の月なのよ!」と季語を入れることで主張している。また、月の色は凡庸な人間が書くと「黄金」とか「黄色」とかと表現されがちだが、aikoは「琥珀」としている。琥珀というのは樹液の化石で、黄褐色の象徴。たったひとつ月の色を表現するために、「琥珀」という言葉を使うことで秋の弓張月の様相だけではなく樹液にひかれるかぶとむしへ連想させるaikoの技法はまぎれない文学であり、スケべである。

かぶとむしといえば夏の昆虫で、冬は越せない。aiko自身がかぶとむしだとするなら、「カブトムシ」はやはり直面していた二人の別れの歌と解釈してもいいだろう。

冒頭で〈そう言われてもあたしは弱い〉とうたうあたり、カブトムシにおけるaikoの本質は弱い。しかし、熱る身体と冷たい指先のように、弱い部分にたいしかぶとむしのように堅牢な殻でかためた強がりな部分もしっかり明示されている。外は強くても、内側は弱い、そんな彼女には言えなかった言葉があった。〈どうした はやく言ってしまえ〉にあたる言葉である。

夏の終わりの、甘い匂いのする彼におでこを寄せていたaikoは、たしかに二人で確固たる夏を生きていた。そして、メリーゴーランドはゆっくりととまり、気がつけば冬も目前に秋もたけなわである。

秋の終わりの歌であるにもかかわらず、「カブトムシ」が夏の終わりに沁みるのは、aikoが言いたくて躊躇したその言葉を、じっくり考えるのに最適な季節だからだろう。そして、来たる秋、冬に向けて、彼女がすごした時間を表面と五感で味わった僕らが、どういう言葉を解答として用意できるか、試されているようでもある。aikoのそういうあたりは、やっぱりドスケベだというほかないんだろうな。

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