くぼたか史 ep7 気づき

いつもと変わらない学校の20分休み、ぼうっとしていたぼくの頭にふと、ある疑問が湧いた。

「ぼくがこの世で生きているのって当たり前のことなのかな?」

2年前の4年生の時、道徳の教科書か何かで全然当たり前のことじゃないと習った記憶を思い出す。ぼくのお父さんとお母さんが出会う確率、さらにぼくのお母さんのお母さんとお父さんが出会う確率……と考えていったらものすごいことなんだって教科書に書いてあったなぁ……。

その授業の時はその話に全然興味がなくて教科書を折って遊んでいたくらいだったんだけど、なぜか今はこのことを本格的に考えてみようかなという気になった。

まずは宇宙ができた確率からか。好きで毎週買ってもらっている「そーなんだ!」という科学雑誌に、確かこう書いてあったよな。

「量子力学という学問によると、手が机を通り抜けることは稀にある。宇宙は、それぐらい普通では考えられないことが起きたおかげで生まれたのだ」

あれを読んだ時は「マジか! すご!」で終わったけど、よく考えたらこれって本当にものすごいことだよな。

手を机に押し付けてみる。もちろん通り抜けるはずがない。どうやっても無理に決まってる。1億回やったって絶対に無理だ。よく宇宙生まれたな……。

宇宙が生まれるだけでもすごい確率だけど、ぼくが生まれる確率はもっととんでもないよな……。だって宇宙ができた後にいろんな星ができて、地球ができて、太陽がちょうどいい位置にできて、生物が生まれて、猿が人になって……その上でさらに例の家系図が全部うまくいかないといけないのか……

体がゾワッとするのを感じた。あまりにも、あまりにも少なすぎる確率だ……。まさに奇跡……途方もない奇跡じゃないか……。

急に、今見ている景色の見方が変わった。人の手で作られた校舎、机、笑っている友達、グラウンド、空、雲、太陽……。どれも当たり前にあるものじゃない。ものすごい奇跡によって存在しているものだ。

体がボワッとする。自分の体の存在感を急に強く感じ始めた。手が自由に動かせること、心臓が動いていること、こうして考えていること、どれもがとてつもなく奇跡的なことだ。

すごい……本当にすごいな……。今までも宇宙ができた確率や家系図の話は知ってたけど、今自分が生きていることの奇跡にようやく驚けるようになった……。


その日から、ぼくはよく考え込むようになった。何をするにも「これってすごいことなんだよな……」と思ってしまうのだ。公園で友達とサッカーをして遊んでいる時も「いやぁ、マジで生きてるってすごい確率だ……」とか実感してしまう。
ある時なんか、公園でみんなが遊んでいるなか1人離れて木を見上げていた。新井さんに「何やってるの?」と聞かれて、「いやぁ、平和だなって思ってさ……」と答えたら新井さんは「なに黄昏てるんだろ……」みたいなリアクションをしていた。自分でもちょっとおかしいと思う。


自分の病気についてもよく考えた。ぼくは自分が病気を持って生まれたことをそんなに深刻に考えてはいない。基本的には「ちぇ、ハズレくじ引いちゃったなぁ。めんどくさいなぁ」ぐらいの感覚でいる。

だけど、やっぱり嫌だなぁと思ったことも少なくない。体が小さいからチビとよくからかわれるし、運動はいつも不得意で友達と遊んでてもあんまり楽しくないし、そういう時は「ほとんどの人が健康な体を持ってるのに、なんでぼくだけこんな損な思いをしなきゃいけないんだ……?」とよく考えていた。

だけど、違うんだよな。「ほとんどの人が健康な中でたまたま病気のある体を持って生まれた」んじゃなくて、「そもそも生まれるはずのなかった世界でたまたま命を授かった」んだよな。そうやって全体として考えたら、不運どころかめちゃくちゃ幸運なんだよな。

だったらまぁ、病気を持って生まれたのなんてどうでもいいか。命がない状態に比べたらぼくができないことなんて誤差で、大体のことは人と同じようにできると考えられるし。もう病気で辛い思いをしても、その運命を恨むことはやめよう。
そんなことを思った。


あと、将来の夢についても深く考えるようになった。

ぼくはお母さんが買い与えてくれたおかげで子ども向けの伝記を読むのが趣味で、何冊も読んでいる。

リンカーン、ベーブ・ルース、野口英世、豊臣秀吉、織田信長、マザー・テレサ、ノーベル、ライト兄弟、ベートーベン、モーツァルト、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、エジソン、キリスト、アンネ・フランク、ファーブル、シートン、アインシュタイン、ナイチンゲール、コロンブス、ナポレオン、ガリレオ・ガリレイ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、シュバイツァー……。

このたくさんの偉人の中でぼくが一際惹かれたのが、エジソンとナイチンゲールだった。

エジソンはものすごく頭が良くてなんでも発明してしまうのがめちゃくちゃカッコいい。そのカッコよさに憧れて、ぼくは5年生になった頃から「将来は発明王になる」と家族やクラスメイトに公言していた。
まぁ、そう口で言っていただけでほとんど何もしなかったんだけど。せいぜい鉛筆のキャップの穴から入れた輪ゴムに挟んだ鉛筆をくるくる回す装置を発明したぐらいだ(それは誰も褒めてくれなかったけど、意外にもあのタケが凄いと言ってくれて嬉しかった)。

ナイチンゲールは、もともと裕福な生まれだったのにわざわざ戦場という最も過酷な場所で生きることを選んだのが凄いと思った。リンカーンやマザー・テレサも人助けをしていて凄いけど、ナイチンゲールの凄さは桁違いだ。一生、毎日パーティをするような贅沢な暮らしができたのに、わざわざそこから飛び出したんだから。そこが決定的に違う。どうしてわざわざ自ら過酷な生き方を選んだのか? 何がナイチンゲールを戦場に駆り立てたのか? ぼくはずっとそこが気になっていたし、全ての偉人の中でナイチンゲールを最も尊敬していた。

そういう思いからぼくはもともと、将来はエジソンのような発明王になりつつナイチンゲールみたいな生き方も真似て途上国の人を助ける活動もしようと思っていたけど、最近後者への気持ちがより強まっていった。
ものすごい幸運によって授かった命なのだから、有効に使わなければもったいない。人を助けるために使いたい。もちろん発明王になるのも単にカッコよくなりたいからだけではなくて地球温暖化を食い止めて人や動物の命を守りたいからという理由もあるんだけど、直接的に人を助けることにもかなり力を入れたい。そう思うようになった。
まあもちろん、自分が有名になってチヤホヤされたいという気持ちもすごく強く持ったままなんだけど。


卒業文集を書くとき、ぼくはこうした最近の考えを書いてみようと思った。普通に修学旅行の思い出とかを書いたってつまらない。一生懸命文章を考えて、構成して、一字一字丁寧に書いていった。タイトルは「奇跡」にした。

かなり頑張って書いたから、学校に提出する前にお母さんに見せてみた。恥ずかしくて服の中に頭をすっぽりと隠して待っていると、「お母さん別に泣いてないからそんな恥ずかしがらなくていいよ」と言われた。そして読み終わったあと、「本当に良い卒業文集だね。お母さん嬉しいよ」と褒めてくれた。

そう、お母さんはぼくの文章をよく褒めてくれる。
4年生の時に離任する藤田先生に離任式で体育館の壇上で藤田先生への思いを書いた手紙を読み上げた時も、「『ぼくは藤田先生のことが大好きです』っていう書き出し、すごくいいよ。子どものまっすぐな思いが伝わって先生かなり嬉しかったと思う」と言ってくれた。
3年生の時に書いた「消えたカメ」という作文も何かの賞をもらったし、ぼくは文章を書く才能があるのかもしれない。


卒業式当日、ぼくはドキドキしていた。この学校では、卒業証書を受け取る前に壇上で自分の将来の夢を発表する決まりになっているからだ。ちゃんと言えるだろうか。

「久保 崇史」

先生から名前を呼ばれて、ゆっくりと歩いて体育館の壇上に登る。緊張しながら振り返り、体育館中にいる大勢の人に向かって、ぼくは大声で言った。

「ぼくは将来、ノーベル賞を5つとも取り、1万円札の肖像画に載ります!」





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卒業式前の出し物にて




〜〜〜〜〜〜〜

(後書き)

今回のはほぼ卒業文集に書いたことを膨らませただけですね。

最近までこの記事の後書きでそれまでのくぼたか史からの総合考察を書こうと思っていたんですが、中学校編を書いたら休止するので、総合考察を書くのは中学校編を全部書いたらにしようと思います。

というわけで今回は後書きは特にないです!


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