くぼたか史 ep8 入院

黒い液体の入ったピンクのトレーを見つめる。もう嫌だ……。

しばらくじっと耐えていると、またあの衝動が来た。ああ、吐く! あごが外れるのではないかと思うぐらい大きく口が勝手に開き、トレーの中に盛大に吐いた。黒い胃液だけがピンクのトレーを満たす。胃に食べ物が全くない。

中学1年の夏休み、ぼくは小学校を卒業する直前から悩まされていた持病の悪化の手術のために入院していた。手術は10日前に無事に終わったけど、その後がかなり辛い。麻酔があるから痛みはないんだけど、麻酔の副作用で気持ちが悪かったり、点滴が邪魔だったり、あまりすることがなくて退屈だったりしている。

何よりも辛いのが絶食で、もう10日も何も食べていないから食べ物が恋しくて仕方がない。点滴からのブドウ糖と鼻管のおかげで栄養は摂れているんだけど、やっぱり口から食べ物を入れて胃袋を満たしたいという欲求は無くせないみたいで、ちょっと気が狂いそうになっている。

2日前に主治医の先生から「そろそろ少しぐらいなら何か食べてもいいかな」と言われたけど、同時に「もしまだ早かったら吐いちゃうけど」と言われたから我慢していた。でも昨日の昼にやっぱり我慢できなくなって、お母さんが持ってきたお菓子を1つ食べたら夜中にものすごい勢いで吐き出してしまったのだ。心から後悔している。

それにしても看護婦さんはまだ来ないのか……?
一刻も早く来て欲しいと願いながらもう40分ぐらい待っている。夜勤ってそんなに忙しいのかな……。

と、やっと先ほど水をお願いした看護婦の村田さんが来た。冷たい水を入れたコップを持ってきてくれている。ぼくはゆっくりと飲んでから、あまり恨みがましいトーンを乗せないように気をつけつつ「40分ぐらい何されてたんですか……?」と聞いた。

すると、村田さんはキョトンとした顔で驚きの返答をした。

「ん、休憩してた」

思わず耳を疑った。あんなにゲーゲー吐いてて辛い姿を見てたのに、のんびり休憩してたなんて……。そりゃ休憩するなとは言わないけど、水を持ってきてくれてから休憩すればいいじゃん……。それか、緊急事態の患者ばかりでどうしても休憩しなくちゃいけなかったとしても、「他の子の世話で手が離せなくて」って言えばいいじゃん……。なんであっけらかんと「休憩してた」なんて言うの……?


水を飲んで少し気分は良くなったけど嘔吐は止まらず、気づくとなんと朝日が差し込んできた。嘘でしょ……? 徹夜で一晩中吐くなんて……。こんなに辛い夜は人生で初めてだ……。

9時になると、お母さんがいつも通り朝一番でお見舞いに来てくれた。ぼくがこの夜の説明をするのを聞いてものすごく同情してくれる。

そしてすぐ、今度は先生が5人くらいで来た。看護婦さんから様子を聞いて鼻管を入れるらしい。鼻管を入れるのはどうやらすごく痛いそうだからなるべくなら避けたかったんだけど、こんなにずっと吐くんじゃ仕方がない。ぼくは観念して、先生がぼくに鼻管を入れるのに身を任せた。

鼻の中にそこそこ太い管が入れられる苦痛は想像以上だった。ぼくは何度も先生の腕を掴んで離そうとしたけど、先生はそんな抵抗には慣れているみたいで強引に鼻管を突っ込む。なかなか入らなくて1分ぐらい悶え苦しんだけど、なんとか入った。

先生たちが病室から出ていった後、お母さんがよく頑張ったねと労ってくれた。ぼくはぐったりして今すぐ寝込みたかったけど、寝る前にどうしてもやりたいことがあった。大好きなONE PIECEアニメの視聴だ。こんな辛い夜を乗り越えたご褒美を受け取ってからでないと寝られない。
ちょうど9時半になるところだったので、ぼくはワクワクして8チャンネルをつけた。そして9時半になり……ぼくは愕然とした。こち亀が放送され始めたからだ。今日はONE PIECEは休みらしい……。
こんなに辛い思いをしたのにご褒美くれないなんて、どんだけツイてないんだよ……。最悪だ……。


嘔吐事件から3週間後、ぼくは退屈の極みにいた。入院してから1ヶ月だ。もうとっくに鼻管を外してご飯も普通に食べられているけど、まだ退院できないらしい。もう結構元気だけど、医者からの許可が出ない限りはしょうがない。

何をしようか……。もう病院が置いてくれている少年ジャンプは全部読んじゃったしな……。同じ病室の子と遊ぼうか……。

ぼくが入院しているのは4人部屋で、ぼくベッドの他に3つのベッドがある。1つは空だったから、ぼくの他には2人の子がいた。

1人は内臓の病気を持っているらしいおとなし目の男の子で、いつも静かにしている。もう10ヶ月以上入院しているらしい。ある時看護婦さんに、「そっか、1冊だけ持ってるクレヨンしんちゃんの漫画しか暇を潰せるものがないんだ。何か遊べるものあったらいいのにね……」とか言われているのが聞こえた。1冊しか漫画を持ってないってどういうことなんだろう。もっと買えばいいのに……。
ずっと外出もできていないようで、ある時やっと外出許可が出て外出したと思ったら、4時間ぐらいで帰ってきてしまった。せっかくパジャマじゃなくてカッコいい洋服を着て意気揚々と出かけたのにすぐにメソメソして帰って何か管を繋いでベッドに寝なきゃいけなくなった姿を見て、ものすごくかわいそうだなと思った。外で過ごすなんていう当たり前のことがほんの数時間もできないなんて、どれだけ辛いんだろう……。

もう1人はイケメンのおしゃべりで、いつも元気であんまり辛そうには見えなかった。看護婦さんとよくおしゃべりをしている。ぼくが苦しい時も笑いながら話しているその子の声を聞きながら、お母さんは「何よあの子、いつもペラペラ喋って。看護婦さんもあの子イケメンで喋るのが楽しいからって喋りすぎよ……」とか言って怒っていた。
でもその子も、毎年1年のうち4分の1は入院してなきゃいけないみたいで、本当は結構大変なんだろうな、と思う。

ぼくなんか1ヶ月だけの入院でこんなに辛いのに、この2人はどれだけ辛いんだろう。想像もできなかった。
だけど、そんなに想像をして思い詰める必要もない。ぼくはこの人たちとは関係がないからだ。2人はそういう重い病気を持って生まれるという運命を背負ってしまったんだからしょうがないじゃないか。普通はそういう運命を背負わないんだから、ハズレくじを引いた人の運命をくよくよと思い悩む必要はない。

2人と遊んだら退屈が紛れるだろうけど、ぼくはかなり迷った。単純になんだか恥ずかしいし、一緒に遊んで仲良くなってしまったら2人の辛さが自分ごとになってしまいそうだと思ったからだ。大変な病気を持っている人がぼくの友達だったら同情してしまうけど、他人だったら関係ない。

関係を持ちたくなくて、結局ぼくは、どちらにも話しかけなかった。


しょうがないので部屋を出て廊下を歩く。点滴が邪魔だ。こんな大きなものと一緒に歩かなきゃいけないなんて不便すぎる。

すぐに廊下の突き当たりに着いた。窓から外をのぞき、病院の中庭を見る。外来に来た子どもたちが楽しそうに遊んでいた。

ああ、いいなあ……。あんな風に外を自由に歩き回れて。
ぼくはもう1ヶ月も全く外に出ていない。もうご飯は食べられるようになったから、今は外に出ることが1番の望みだ。

外に出られさえすればなんでもできる。風を浴びることができるし、美味しいものが食べられるし、学校に行って友達と遊べる。全部当たり前のことだったけど、入院してみて、全部どれだけ尊いことだったのかを思い知らされた。

ああ、1日も早くあの日々に戻りたい。外に出て自由を手に入れたい。
長時間窓の外を見ながら、ぼくはひたすらそう強く望んでいた。




〜〜〜〜〜

(後書き)

・母のメモによると、7/30から9/8まで入院していたそうです。


・最後に「普通はそういう運命を背負わないんだから、ハズレくじを引いた人の運命をくよくよと思い悩む必要はない」などと書きましたが、正直言うと、わざわざそう内心で言語化していた記憶はありません。単に無意識で「自分とは違う」と思って深く同情していなかっただけです。

ぼくは高校生の時にこの考えが大きく変わるのでどうしてもこの中学の入院シーンで当時の考えを言語化しておく必要があり、「この時に無意識で考えていたことをあえて言語化するとこんな感じだろうな」と想像して書いた感じです。

ep7を踏まえるとぼくは病気で苦しんでいる人にも深く同情しそうにも思えますが、ぼくは途上国の人のことは「同じ人間なのにどうしてこんなに違うんだ」と深く同情していたくせに、病気の人に対しては「ぼくとは違う運命を背負ったんだから仕方ない」と(無意識で)考えあまり同情していませんでした。

その差はなぜ生まれたのかという疑問はあります。

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