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ChatGPTは文系大学を駆逐する

 文系大学への批判理由は主に二つある。一つ目は、理系(STEM)が人類や社会の発展に寄与している一方で、文系分野は「お遊び」なのではないかという批判。次に、そんな「お遊び」を四年間やっただけで大卒者にしか手にできない経済的機会が得られる社会構造は不健全だというものだ。

 文系大学の学問が「お遊び」だと言われるのは、理系と違ってエビデンスが科学的ではないからだ。例えば文学研究で夏目漱石を題材にした場合、研究者は漱石の作品を読み、先行研究の論文、明治大正時代の新聞や雑誌をかき集め、時代背景を調べる。これらから得られる知識を何と呼称するかというと「雑学」である。「漱石が『三四郎』を書いた時の時代背景は○○なんだ」「漱石が『草枕』を書いたときに友人にこんな書簡を送っているから、おそらくこれにはこういった思想的な変遷があって・・・」などは、非常に興味深いし面白いが、どこまでいっても雑学なのだ。
 また、あの悪名高い社会学などは、社会問題を、恣意性の高いアンケートからポリコレ教条的な思想体系によって読み解き分析する。挙句の果てに生物学的特性を無視した社会構築主義を生み出した。彼らはその界隈でしか理解できない用語を生み出し科学的な批判を超越できるカルトと化した。
 一方で理系は科学的で、一つの答えを探している。解釈次第とか、主観による、とかは許されない。そして人類社会の発展に寄与している。スマートフォンを開発したりロケットを火星に飛ばしたりする。

 漱石の研究も、カルト的なジェンダー論も好きにやればいいが、問題はそれら雑学収集にすぎない営為が大学の学問とされて多大なリソースを国と社会から投資される点だ。
 雑学を四年間しているだけでなぜ中卒や高卒の者より有利な就職先が得やすくなるのか。そこに正義はあるのか。

 また、高学歴な文系大学卒業者を見るに、学歴社会はメンタリティーにも悪影響だ。高学歴な文系大卒者は傲慢で、むしろ傲慢にさせるために親は子を大学へ進学させている。マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』で、なぜ金持ちの親は子供に内緒にしてまで裏口入学させるのか、という話がある。つまりは、親は子に、自分の実力で高い社会的地位にいると思わせたいのだ。傲慢さはただ多額の小遣いを渡すだけでは涵養できないのだ。

 結果的に、文系大学に入学した者は雑学を集めて「お遊び」論文を書き、卒業時には大卒資格者にしか手にでない経済的機会を得るのである。そしてどういうわけか、彼らはそれを自分の実力に対する正当な対価だと感じている。

 もちろんChatGPT出現以前に、文系大卒者の能力には疑問が呈されていて、仕事の席は減少していた。高学歴な文系大学卒者がルンペンブルジョワジーと言われるポリコレ的な強請り業を行い始めたのは、社会に彼らが満足する就職先がなくなったからだ。

 大企業に就職するにしろ、ルンペンブルジョワジーになるにしろ、彼らは傲慢だ。高学歴な自分達には価値があると思い込んでいる。

 だが先ほど言ったように、彼らは四年間「お遊び」をしていただけだ。例え真剣に文学研究をしていたにせよ、ジェンダー用語を流暢に操っていたにせよ、それは科学的ではない自己満足の趣味だ。

 文系学問が人類社会の発展に寄与していないと指摘されると彼らは開き直る。「学問は知的好奇心を満たすもの」とか「学問は役に立つとか役に立たないの次元の営為ではない」と竹林の七賢ぶる。「大学は就職学校ではない」と象牙の塔に逃げ込む。
 それならそれでいい。いくらでも研究してもらって構わない。俺も夏目漱石が好きで時代背景を調べるのは楽しかった。
 だが、ならば文系大卒者が受ける社会的・経済的な恩恵があるのは許されない。仕事の募集要項に大卒者資格を求めている世を許してはならないはずだ。文系大学の文化的資本をブランディングして自分達の影響力を強めて社会を強請ってはいけないはずだ。

 文系大学は格差の固定装置の側面が大きい。大学の学費を払える親(少なくとも、子供が高校を出てからプラス四年間無収入でいることを許容できる)の子供は進学できる。一方で、高卒の親を持った子の大学進学率は低くなる。

 日本の文系大学にはさらに問題があって、受験は苛烈だが入学後は余程のことがない限り卒業できてしまう。四年間「お遊び」の雑学さえしていなくとも大卒者になれてしまう。
 そんな状況でも高学歴な大卒者が傲慢でいられる理由は、受験勉強を勝ち残れた地頭の良さや努力できる才能を自負しているからだ。「学歴は大事だ。受験勉強を頑張れた人は頭の使い方がいい」といった持論を展開する。これは学習における転移を過大評価している。(転移とは、Aという分野で学習して得られた能力が、別のBという分野でも活きてくるという説。よく脳を筋肉に例えて、数学や古文の勉強は一見将来の実際的な生活に役に立たないが、脳が鍛えられて基礎体力がつくから有意義だ、と説明される)
 現実には転移は起きない。受験勉強はどこまでいっても受験勉強であり、それで脳が鍛えられるわけではない。また地頭がいい証明にもならない。たまたま受験勉強が得意な脳だっただけだ。
 受験勉強の結果が良かったことが、将来にわたって優遇される根拠にはならないのだ。

 文系大学は「お遊び」だ。それはそれでいいが、権威になり、既得権益を持つのは不健全ではないか。
 それがついに、ChatGPTの出現によって是正される時がきた。雑学において、AIに勝てる人類はいない。インターネットという最大の図書館の知識を自在に出力できる存在が産声を上げたのだ。

 文系大学の駆逐は正しいと私は思う。「お遊び」から権威と既得権益が取り除かれ、傲慢な者達は去るだろう。

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