見出し画像

何がコミュニケーションだったのか

「あなたは確かに英語が堪能とは言えない。けれども、話そうとしている。それに口数少ないけど、私たちの言ってることは理解してるでしょ?それで充分よ」

数年間、英国留学していたことがある。
とてもよくしてくれる友人に、アリソンという女性がいた。
彼女はおばあちゃんが魔女で、腹違いの妹が2か国くらいにいた。将来はスペインに移住したいと言う、少し変わった雰囲気の人だった。

よくしてくれるってのは、単なる友達でおしゃべりとかキャッキャする、とかではなく、とにかく色々なところに連れて行ってくれた。そして英国のごく普通の家庭の雰囲気も見せてくれた。(彼氏のお姉さんやご家族のパーティになぜか私まで連れていってくれたし、彼とも私はお友達だった)

多分、ソウルメイトってのはこういう人なのかもしれない。黙っていても気楽だし、おしゃべりしてもお互いに理解しようと心がける。たとえ、言語が違っていても。

そんなアリソンに私は問うたのだ。
「どうして私にこんなによくしてくれるのか。私は英語、上手くしゃべれないし」
と。
どんなにがんばっても、私の英語の発音はアウトだった。舌が短すぎるのかもしれない。そもそも日本でも口数が少ない部類だったから「何を話すかを考えて、無駄話をする、しかも英語で」という作業が非常につらかった。
聞き間違いで、勝手に差別を受けたと思って泣いたこともある。文章は書けるし読める。とてもとても、悔しかった。しかし皆口をそろえていった。
「私は英語しか話せない。しかし君は母国語以外を話してコミュニケーションしてる。それは凄いことなのだ」
と。

言語というのは「コミュニケーションの道具」でもある。
アリソンが言ったことを思い出すと、つまり私はコミュニケーションが出来ていたということになる。英語は下手くそだ。しかし、私は伝えようとがんばっていたし、彼女も理解しようとしてくれていた。逆もしかり。

同じ言語の人(つまり日本人)でも、言葉が通じない人がいる。この場合、言語は役に立たないし、意思の疎通がままならないことが多い。

「あなたは私たちの言ってること、理解してるでしょ?」

これと同じことを、仕事でご一緒したフランス人にも言われたことがある。
他に凄い英語を駆使する人がいるにもかかわらず、私の目を見て、茶目っ気たっぷりにウインクをして、言われた。

最近これらのことを思い出すにつけ、よその国の言語を学ぶ前の大前提を、人は時々見失ってしまいがちになるなあって頬杖をついてしまう。

うまく、かっこよく、それっぽく。
一方的にぺらぺらと、中身のないことを、喋る。

言葉が出来ても、詳しくなっても、上手くなっても、コミュニケーションの道具を『使えてない』のであれば、それはuselessだ。
技巧こそ知識こそ良、とつい思ってしまいがちだったけれど、私の友人は最初から、私個人を見てくれていたのであって、コミュニケーションの道具の使い方が下手くそだろうが、ちゃんと意思の疎通をしようとしているのも分かってくれていた。
だから、充分だと。
おかしかったらちゃんと修正するわよ、とも言ってくれた。

確か、私はこの言葉を聞いた時に泣いた。

言語を駆使出来ない自分の無能さに酷く絶望してたから。
せめて、と寝るときに朗読オーディオ聞いたり、BBCニュースを無の表情で聞いて、耳だけは研いでた。そこを、理解してもらったとは思わないけれど、何か感じ取ってもらえたことで私の「下手くそ」は救われた。

元気ですか、アリソン。
手紙を英語で書くの躊躇うほど、もう英語ちんぷんかんぷんになってしまいました。それでも「蓮子は英国にずっといるのよー!」と、空港で撮ってくれた私のチェキはまだ、あなたのもとにあるといいなって思います。

コミュニケーションとは何か。
言語は人と人の理解を深めるツールでしかない。あとは人同士の相互理解でしか解決しない。
ふと、彼女のことを誰かに言いたくて、したためてみました。
無駄に長い上に起承転結が無い。おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?