大学院2年生 作品スタディ
大学院では年明け1月の修了制作へむけて、各自様々な研鑽を積んでいます。今週は、2つの作品スタディが提示されました。
場所は北校地と南校地を地下で繋ぐ『ガレリア』。
実は某有名アーティストがここでMVを撮影したとかしないとか。
関係ありませんが、武蔵野美術大学でロケ地としても利用を開放しています。確か有料でした。詳しくは広報に問い合わせていただけると。
今年に入ってからLEDライトを鑑賞者へ持たせて、映像的体験を構築できないか探求しているとのこと。
このやりとりのなかで、山崎も新しい発見がありました。
まだまだ私も未整理ですが、「ミクロ的抽象性」と「マクロ的抽象性」という観点がありました。
そのきっかけは、このスタディで「抽象と具体は隣り合わせている」という篠原先生の指摘に対して、山崎がパラフレーズしたものです。
篠原先生の指摘を正確に言い換えているわけではないと思いますが、普段から感じている抽象の可能性について、少しシャープになったように思います。
インタラクションにはカメラがない
インタラクションの定義にはかなりの冗長性があるように思います。インタラクションについて考えることは、ある尺で閉じた映像(始まりがあり、終わりのある映像)の自明性について考えることでした。この問題意識は映像をつくる上で考えざるをえない。映像にインタラクションは有効か?という問いです。
映画にインタラクションがある。映画の登場人物と観客が呼応する。そんな夢を抱いたことのある制作者はおおいのではないでしょうか。
そこで、インタラクションと映像の再定義を「カメラ」から試みることができるのではないか。今回のLEDライトによる鑑賞者の介入から派生した議論でした。
つづいて、同じく「ガレリア」に別のスタディも提示されました。
映り込みによる、擬似ホログラム的なアプローチはこれまでも多くなされてきました。その技術・仕組みの新規性を主眼におかず、その仕組みを内容とより密接に関わりながら作品へと展開できないか。
そこで「新宿の猫」などでみられる立体視との掛け合わせの可能性について議論されました。今回のホログラム的表現には後ろの風景が透けてみえるという特徴があります。
そこで、背景との関係性のなかで複数の層を跨ぐことであたかもそこに存在しているような映像表現はできないだろうかという指摘がありました。
映像のフレーム内にフレームを設け、その内側のフレームが実空間のパースペクティブと対応している。その「新宿の猫」の構造を改めて整理することに。
他方で、舞台美術における消失点を多数設ける多視点化も可能性としてはあるのではないかと、議論は広がりました。
映像空間領域では日々様々なアプローチで「映像」についての考察を深めています。特に大学院ではすでに各自のテーマがある中で、作品制作を通じて「映像」について考えます。「作品制作」を通じた思考こそが重要だ(とおもっています)。それは、「映像」から様々な領域を標榜する行為であり、武蔵野美術大学映像学科の特長の一つかもしれません。
(山崎連基)