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第二章 下天、託胎、降誕

 一切義成就(いっさいぎじょうじゅ)菩薩*①は、すべての行を修め一生補処の菩薩として兜率天(とそつてん)にいます。そこから下るため娑婆世界を観察していました。
「娑婆の衆生の機は熟したか?時は熟したか?いずれの国に生まれようか?生まれるところの種族はどこがいいか?父母となるべき両親の過去の因縁はどうなのか?」
 その時、兜率天にいた諸々の天子は、大いに歎き悲しんでいました。
「どうして娑婆世界へ行ってしまわれるのか?せっかく私たちは法の眼を得たのに。行かれたら、川を渡るに船頭を失ったように、また幼児の母を無くすのと同じぐらい悲しいことです。もとの無明の床に臥してしまう……」
 菩薩は、そうした諸天の泣き悲しむ声を聞き、
「上は阿迦尼吒天(あかにたてん)より下は阿鼻(あび)地獄に至るまで無常の大火を逃れるものはいない」と言って偈を説きました。
「諸行は無常なり  是れ生滅の法なればなり。生滅滅し已りて 寂滅なるを楽しむとなす」
 その時に菩薩は、託胎の時がきたのを観じ、六牙の白い象に乗って兜率天を出発しました。諸々の天子たちは音楽を奏で、名香を焚き、天華を降らしました。虚空の端から端まで光で満ちていた中を、四月八日の明星の出る時を待って、菩薩はその魂を摩耶(まや)夫人の母胎に降ろしたのでした*②。

 ところが、第六天の魔王はその摩耶夫人のお腹を見通して、
「我々の大怨敵である法華経という利剣を孕(はら)んだな!」
「出産しない間に亡き者にしてやろう」と思ったのでした。
第六天の魔王は名医に化けて、浄飯王(じょうぼんのう)の宮殿に忍び込み、お産の良薬だと偽って毒薬を后の摩耶夫人に飲まそうとしました*③。

 それは西暦では紀元前1029年(B.C.1029)のこと。中国の暦では周の昭王(しょうおう)の24年甲寅(きのえとら)の年でした。
 周の国中の河川や湖や池や井戸の水はあふれ出し、宮殿をはじめすべての建物やそして大地が震動しました。その夜、五色の光が夜空の天空を貫き、大地は昼間にかかる虹のように普く明るくなりました。その光はまた西方へと伸びていました。またそのような不思議なことが三十二もありました。
 周の時代の皇帝昭王は、史官の蘇由(そゆう)にそのことを尋ねまし
「これはなんの現象か?」
蘇由は答えて言いました。
「大聖人(だいせいじん)が西方に生まれたようです。この奇瑞はまさにそれによるものだと思います」*④



①『開目抄』(定遺562頁)。
②『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四巻 12~15頁)。
※〈はじめに〉でも少しふれましたが、日蓮聖人は大正新修大蔵経の仏伝を収める本縁部のすべての経典を読了されたものする。なお、国訳一切経の『過去現在因果経』の解題に〈「過去の因を知らんとせば、現在の果を身よ。未来の果を知らんとせば、現在の因をみよ」という『善悪因果経』の語句は、全くこの経(過去現在因果経)より得たものに外ならぬ〉とある。日蓮聖人の『開目抄』「心地観経云 欲知過去因見其現在果。欲知未来果見其現在因等云云」(定遺600頁)は、茂田井教亨著『開目抄講讃下巻198頁』によると〈聖人が「心地観経に云く」と言われているのは伝えられるままに引用されたからであると思います。その御文はどこに出ているかと言いますと、『諸経要集』(大正蔵経54巻129頁下)という諸経の要文を集めた書物に出てまいります〉と。つまり一切経はもちろん、中国仏教に関連した民間伝承・説話・註釈書・辞書類等を集めた大正蔵経の事彙(じい)部の書物まで読了されていたことがわかります。
③『報恩抄』(定遺1198頁)。
④『災難興起由来』(定遺159頁)。


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