蓮行、“演劇×社会”を語る 「演劇は、あった方がいい」フリートーク #1

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「頭を下げれば大丈夫」

内に新設される、「演劇×社会」を語るコーナーにて、第一回特集でピックアップしていただけることになりました。

新コーナーの名は…『演劇は、あった方がいい』! その第0回として、インタビュアーを担当してくれる方とフリートークをしてきました。

もともと、掲載予定で録ったものじゃなかったんですが、読み返してみると我ながらなかなか面白かったので、その内容を「蓮行流クロスメディアミクス道場!」にて掲載することになりました。
あまりに長かったので、2回にわたり分割掲載します。今回はその第1回!

↓↓↓

■タイアップということで

−−−ではまず…タカハシさんのインタビューの定例に沿って…「蓮行さん、最近どうですか?」

蓮行 良い質問だね。

−−−前のインタビューでは季節の話をされていましたよね。これから秋になっていくということで、俺様のシーズンが終わるということですが……どうですか?

蓮行 最近作った俳句はね、「ツクツクボウシ 誰にことわって 泣いている」。

−−−最後以外全部字余りですけど。

蓮行 それくらい破格の怒りと悲しみを表現しているんです。

−−−なるほど。夏が終わって悲しいですか?

蓮行 そうですね。

−−−どう困るんですか?

蓮行 えっと、いろいろあるんですけど、風邪を引くことはとてもいけないことだ、というのが我々の考え方なので。

冬は、風邪にしてもインフルエンザにしても夏に比べてリスクが跳ね上がる。

ちょっとうつらうつらしてしまうともうアウト、みたいな感じで。冬はとにかく油断ならないんですよ。

−−−たしかにそうですね。

蓮行 なおかつパッチも履かなきゃいけないし靴下は二枚履きしてるし…

−−−(笑う)

蓮行 例えば、ちょっとKAIKAの台所で手を洗ったときに水が飛んでしまったという場合。夏だったらほっときゃ良いんだけど、冬だったら靴下2枚とパッチとズボンを全部変えなきゃいけないし、乾かさなきゃいけないですからね。さらに、乾かしてる間もどのようにして身体を冷やさないか…。なんせ冬は工数がかかるということですね。

−−−クマたちは冬眠するくらいですからね。実は生き物たちが生きる季節ではないのかもしれないですね。

蓮行 そうなんです。

−−−じゃあいつかは、劇団衛星も冬の来ない国に?

蓮行 いいですね。秋口からは沖縄事務所に全員移転、みたいな。

−−−渡り鳥的劇団ですね。

蓮行 そうそう!別に高知くらいでもいいけどね。

−−−それくらいならそんなに寒くないかもしれないですしね。


■「演劇はあった方が良い」

−−−今回の特集のタイトルは「演劇があった方が良い」っていう話なんですけど、その「演劇はあった方が良い」というのは、どういう意味合いなんですか?蓮行さんの考える「社会に演劇は良いと考える要素」は何なのかなって。

蓮行 とても良い質問ですねそのココロはまず、「いま、演劇ってないですよね」っていうことなんです。社会に、事実上。

−−−「演劇が社会にない」?どういうことですか?俳優さんはいますし、公演だってそこかしこで打たれていますけど。

蓮行 それもとても良い質問です。ごく慎重に答えていきますね。

「あるかないか」っていうのは、これも実は哲学的、物理学的議論であったりするんですけど。

例えば「宇宙空間には何があるのか」みたいなことはずっと議論されていますね。また、「人間の遺体を焼いてみたところ、どうしても何グラムか計算が合わない。これが魂の重さなんじゃないか」なんて説も昔からあったりするんだけど。

そういう「あるのかないのか」って問題は、何を以って「ある」、何を以って「ない」とするかという議論から、実は逃れられない。

で、例えば、「いまこの部屋には人が生きていけるだけのリソースが過不足なくありますか?ないですか?」という話がある。ここには人が生きていくための、何がある?

−−−空間。

蓮行 あるね、そうそう

−−−空気。

蓮行 他には?

−−−少量だけど食料がある、飲み物がある、日光がある…

蓮行 そう。というように、野良犬とかに襲われないだけの囲いがあるとか…そういうものがある。で、それでいくと、うーん、何処がいいかな…琵琶湖の中にですね、ジャボンと沈んだとき。琵琶湖の中には酸素はありますか?

−−−うーん、一応はありますけど、人間が吸えるかたちでは、ないです。

蓮行 ということだよね。

「水中には酸素はあるのか」ということでいうと、あるわけ。だけど人が生息するための酸素はないし、人が吸えるかたちの酸素はないという言い方ができる。

でね、「お前なんか、琵琶湖に沈めたるわ」ってお母さんに言われて、子供がさ、「そんなん生きていけへんわ!空気ないねんから!酸素ないやんか!」って言ったとする。

そのときお母さんがそこで「いえ、厳密にいうと水の中には0.2から0.6パーセントの酸素が溶けており…」とかって言わないでしょう。その場合は便宜上、酸素は、ないわけ。

だからさ、あるとかないとかっていうのは、常に、「あるといえばある、ないといえばない」。

あるというのはだいたい屁理屈的に「木星の表面にも空気はありますゥ~」とかいうような話になる。

そういったとき、それがあくまで程度の問題だとするならば、僕の認知においては今の日本の社会には演劇は、殆ど、ないと言って良いくらいの程度にしかない。

−−−あるけど、足りないっていうことですか。

蓮行 だったり、あるべき基準までないというふうに僕は思っている。

僕の仮説では、演劇というのは人類に必要なものなんだが…

いま我々が、あたかも酸素が薄すぎる環境で低酸素症に陥っているかのように、演劇というものが、社会にあるべき量と質で存在していないので、

それを、つまり、その部屋に酸素を注入したりするのと同じように、演劇をもうちょっと増やす必要がある。ということが、「演劇があった方がいい」というココロです。

ああ、いいね。この結論に至るまでには今までくらいクドイ説明が必要だね。

「あるべき水準の演劇の量と質がなくて、それを回復したり供給したりした方がいい、という意味ですよ」って、あっさりと言ってしまうといけない。

「琵琶湖の水中にも酸素ある」とかそういうウザイ話が必要だというのが僕の今の認識ですね。

−−−なるほど。


■形式情報化のワナ

−−−演劇をやったことがない、せいぜい「小中学校の学芸会であったな」程度の経験しかない私からすると、「演劇がない」状態が普通なんです。だから、「演劇はあった方がいい」って言われても、なんだかピンとこないんですよね。演劇をやったことがある、演劇に身を沈めている人からしたら、パッと認知できることなんだと思うのですが…。

−−−今の、この演劇が不足している社会で蓮行さんが思う「演劇が必要十分に浸透している社会」とはどういう社会なんでしょう?また、それが達成されたら、結果として私たちの社会はどのような社会になると考えますか?これ、言葉で回答できるものじゃないだろうな、とは思うのですが。

蓮行 うんとね、まず先に言っておくと、僕は前者にも後者にも答えられない。

けれど、なんで答えられないかっていうことと、あるいは、答え方としてはこういう答え方にしかならない、という説明をしていくね。

前者は例えばね、「都市にミドリが少ない」というのに話としては近い。

−−−はい。

蓮行 例えば…そうだな。「渋谷にはミドリが少ない」としよう。

そこで、 「では渋谷に、どういう風にしたらミドリが少なくないと言えますか?」と尋ねられたら、答えられる?

−−−あーそうだな。これは、答えられないかな。

蓮行 答えてみて。

−−−そもそも、「必要十分な水準をどこにおくか?」が難しいというか、設定の仕方がわからないですね。

単純に、どこかとどこかの比較、渋谷区のミドリと、京都亀岡のミドリとを比べたら、まず「渋谷区の方が少ない」っていうのは示せると思います。

蓮行 じゃあそのミドリの量ってのはどうやって測る?

−−−面積で示す、ですかね。

蓮行 面積ではかる?家の庭のプランターに植えあるものはどうやってはかるの?

−−−測定しようのないものは除外、ですかね。たぶん、衛星画像とかから解析するんだと思いますが。私が知らないだけで、プランターに植えてあるものも測定できるような、いろんな計測方法があるのかもしれないですけど…。

蓮行 でもたぶん、いま考えてくれている計測方法はどれも、素人は容易に「それって何なん?」って思うよね。まずさ、科学者がいきなり「測れないものは除外する」と言った場合、「除外するなよ!」ってなるじゃない。

「科学の手法では追いきれないので、仕方がないので捨てざるを得ない」というような話になるけど、「お家の鉢植え」もミドリだし「雑草」もミドリだし「巨大な樹木」もそうだし。自然に生えてるものも植えたものも全部そうなわけであって…

「ミドリが少ない」っていうのも抽象的な概念だけど、そもそも「ミドリが少ない」ことによって、心理的な影響なのか、排ガスを浄化する作用なのか、それとも酸素の量か、単に木陰という意味で、紫外線の遮蔽効果もあるだろうし…

蓮行 でね、いわゆる「酸素の供給量」という意味でいけば、ケナフのような二酸化炭素をやたら吸うやつを植えれば良いという話になるし、なんとなく目で見て楽しむということだったら一家に2つずつプランターを配ってみんなそれを軒先においてくれたら道行く人には十分なアンチストレスの効果が得られるということができるかもしれない。

何が言いたいかっていうと、「ミドリが少ない」「これだけの量があれば良いからこれだけを回復しよう」という議論は、そもそも、形式情報化のワナに陥っている。

わかりますか?

−−−はい。

蓮行 例えば僕が渋谷区長で、「渋谷のミドリは少ないですよね」というように言われたら「じゃあさ、まずさ、植木鉢でもペットボトルでもいいから1個、ベランダなり玄関に置いて植物を育てるってのをやってみてよ。こっちはこっちで公園を一つでも増やすよ、街路樹をこんな風にしてみるよ。」っていう風に、今よりマシな水準を目指す。

同じ「ミドリ」というものを出現させるにしても様々な方法があって、それをどう妨げないかという感じ。

また、変な外来種を植えちゃうと生態系が崩れてかえって悪くなるということがあるというから、何でもかんでもやればいいってもんじゃない。そういうリスクをどのように警告するか。「これは植えないでください、やばいんで」。どっちかっていうとそっちが大事で。

「これをしましょう、あれをしましょう、なんでもとりあえずやってみて。でも、これはやらないで。危ないから。ここに街路樹建てられると信号が見えへんねん。」とか、そういう方が大事で。わかります?

−−−わかります。

蓮行 だから、「演劇がたくさんやられている世界はどんな世界?」と言われてもわからなくて。

今よりもみんなが何かしら演劇に触れている。お誕生日会でも子ども達が演劇をするし、学校の授業でも何となくそれが使われているし、街では色んなところで…劇場で上演されているだのはもちろん、お寺や神社やそこら辺の公園でも野外劇がされているし、パッと飲み屋行くと観た芝居について議論している人がいるし…というような、様々なジャンルで様々な使われ方をしている。けれど、一歩間違えてどっかの知事みたいなやつが現れて「演劇だ!」と言い出す。

「街のど真ん中にでっかい劇場をつくってブロードウェイ化しよう」とかいう馬鹿なことを言いだす。でも実際に街の真ん中にブロードウェイをつくって、例えば年間100万人の人が来たとすれば、京都市は140万人の人口なので、140万人中の100万人が演劇に触れたというというになって、パーセンテージ上では凄いことになる。けれども、それは僕のいうところの「演劇が増えた」とは、あまり言えないわけだ。どういう社会が演劇をたくさんインストールしている社会なのか、っていうことは、僕としてはとにかく漠然とさせた方がいい。

−−−はい。

蓮行 ミドリが多い街っていうのが、例えば右京区の京北に行く途中の完全に山のなかにある、完全に木々に囲まれた集落も、もちろん見てわかる通りミドリが多いに決まっているし、そのかたちが悪いというわけじゃないけど、ありとあらゆる都市をそうしろというのには無理がある。

だからまあ、そういう意味では、極論すれば「今よりもなんとなく皆さんが演劇に親しんでて、量的にも大なり小なり演劇に関わって、お芝居やってみたりするような世界です。」としか言いようがない。

で、それは年間100万人を収容できる劇場ができたとしても全くと言っていいほど意味がないし、むしろ弊害なんです。

−−−あ、蓮行さんがおっしゃる「形」っていうのは、ぼんやりさせた方が良いと言いつつも、そうは言っているんですね。

蓮行 どういうこと?

−−−「演劇の存在する形ってのは、ぼんやりさせた方が良いんだ」とは言いつつも、ブロードウェイとか、どこかに大劇場をとにかくつくって観客動員数を増やしたって、演劇が浸透したと言えるわけではない、そういう形の存在ではない、というのはあるんですね。

蓮行 うん。そうだし、さらに、自己矛盾しているようだけど、別にブロードウェイのようなものがあってもいいんです。それは必要条件主義か、十分条件主義かというような話で。

「ブロードウェイみたいなのをつくって年間100万人動員すれば人口あたりの演劇に関わる数は増えるんだからそれで良いんでしょ、十分でしょ」ということじゃないってことなんです。

−−−それはよく緑地面積の話でもいわれますね。でかい公園をつくったら良いのかというと別にそういうわけでないでしょうという。

蓮行 そうそう。全くその通りです。

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読み返してみると、本当にいいこと言っているな。わし。(自画自賛)

次回更新のフリートークでは、

・演劇と、基本的人権が尊重される社会

・社会に“溶け込む”ということ

について語ってます。乞うご期待。


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