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ワークショップ道場#4「ひとそれぞれ好みはあるけど、どれもみんなきれいだね?」

これは私の上司である平田オリザ氏の受け売りですが、ワークショップの定義の一つに、「参加者の履歴を尊重する」というものがあります。つまり、従来のスクール型の授業では、子どもが算数が得意でも不得意でも、どんなライフヒストリーを持っていても、その単元について、一方向の授業がなされます。なので、「出来る子にレベルを合わせると、苦手な子がついて来れない」「苦手な子に合わせると、出来る子が退屈する」という問題がつきまといます。

では、演劇ワークショップでそれが解消できるのか、と言われれば、そんな算数の問題を簡単に解決できるわけではないのですが(いや、本当は解決も不可能ではありませんが、それはまたいつか)、ワークショップ型教育は、それぞれのキャラクターやライフヒストリーを、ある程度尊重した時間を作ることが可能です。

例えば、従来の音読の授業では、多くの場合「大きな声で、ハキハキと」読むことが良しとされてきました(私の知る限りでは)。しかし、演劇の場合は、大きな声でハキハキとセリフが言えれば良いという訳ではありませんから、声の小さい子には声の小さい役を振ることもできますし、なんなら全体的に声が小さい人ばかりが住んでいる国の劇を作ることもできます。その、「小さい声の国」の劇が、参加する子どもにとって新鮮で楽しく、学びのある体験であれば良いわけです。

「大きな声でハキハキと!」しなくて良い、というのは、実は教室ではちょっとしたパラダイムチェンジです。演劇に限らず、芸術全般には常識や思い込み、フツーや当たり前を、「ほんとにそうか?」と疑ったり、「フツーでは面白くない!」と変えてやる機能・使命があります。演劇を学校の教室に持ち込む以上は、「パラダイムチェンジ」を発生させなくてはいけませんし、それは経験上、必ず発生するものです。

しかし、一方で、その学級の履歴をも、尊重しなくてはなりません。つまり、そのクラスにどんな子どもたちが居て、その場でどのように過ごしてきたか、担任の先生がどのような苦労と想いで学級経営をしてきたか、それを尊重する精神が極めて重要だと言うことです。演劇を含む芸術には、パラダイムを変換してしまう暴力性がありますから、それが参加者や参加者が作って来たクラスの履歴を否定しすぎたり、ねじ曲げたりしないように、強い配慮が求められると思います。


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